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2008年06月23日

●よもやま話「鼻毛石町大日高地の赤城塔(大日様)」

宮城体育館南の五輪塔前橋市立宮城中学校の西隣に前橋市宮城体育舘がありその南側に小さな池(調整池)がある。その池の南端に15基分の五輪塔の残欠がコンクリート土台の上に整然と並んでいる。
旧宮城村時代この辺りに埋もれるようにあったのだが、体育舘建設に伴い移転安置された五輪塔であろうか。
時々、この前の道路を通るので五輪塔があると言う事は承知していたのだが、立ち止まり調べた事も無かった。
赤城南麓交流村(宮城ふるさと地域づくり推進協議会)による花植え作業の折に五輪塔に近づいて見たら、何と赤城塔の塔身部分が逆さまになって設置されていた。
思いも掛けず赤城塔に巡り会えるとは・・・心が躍った。
大概は墓地の中にあるのだが・・・・五輪以外の墓石が無いとこを見ると、恐らくは絶えて久い一族の墓地では・・・。さもなくば、この他の墓石を他に移転したのか・・・・何れにしても、江戸時代以降の足跡が無いと言う事は不思議である。
かつて宮城中学校を建設した当時、その一帯から縄文時代の遺物が多く出土したと所有者の方から聞いた事がある。恐らく谷間の川端に集落があったのだろうし、その肥沃の大地に根差した一族が営々と中世まで・・・いや、決して途絶える事無く続いていたのだろう。
そして、その一族は赤城了需の教えに帰依し、南北朝の頃この塔を造立したのだと思う。

ここまで書いてから追跡調査をと思い立ち、この体育舘建設は確か元宮城村長桜井敏道さん時代に工事をしたはず。さっそく桜井さんに電話を掛け当時の地権者は誰であったか尋ねたところ、桜井さん曰く、そう言えば、当時、誰かがお礼に訪ねて来てくれた記憶が・・・え〜っと思い出すから・・・それから、当時の建設課長の生方さんにも聞いて見るとの返事。
折り返し電話が掛かって来て、北爪好雄さんであったとの事を教えて下さった。
それから直ぐに、北爪好雄さんに電話を掛けお話を伺う。
北爪好雄さん曰く、元あった場所は現在地から数十メートル上で、大日様があった場所で、その辺りを大日高地と呼んでいたそうだ。宮城中学校が出来た頃、新沼と呼ばれた沼の土手に今の倍近い五輪塔があったが、冬、沼が凍るとその氷を割る為に子供達が五輪塔を沼に投げ込んだとの事。また、北爪好雄さんは若い頃、古老から明治時代には大日様のお祭りが盛大に催されていたと聞いた記憶があると。しかし、北爪好雄さんの記憶には既にお祭りの記憶は無いとの事であった。
北爪好雄さんは、桜井村長さんのお陰で赤城寺の住職を呼んで丁重に弔って戴いた事を感謝しているので、くれぐれもよろしくお伝え下さいとの伝言をお預かりして電話を切らせてもらった。
大日如来は大光明遍照、摩訶毘盧遮那(マカビルシャナ)如来、大毘盧遮那如来とも言う。
密教の根本教主であり、その知恵の光明は、昼夜の別ある太陽の威力を上まわる意味から大日と言うとのこと。板碑に大日種子を主尊としたものが刻まれたりしている。
また、真言系寺院や修験道の関係地に残されている場合も・・・もしかするとこの赤城塔も大日如来として信仰されて来たのかもしれない。
了儒と因縁浅からぬ赤城寺住職の読経は天に届き、太陽の恵みを赤城南麓の人々に与え続けてくれる事だろう。

宮城体育館南の五輪塔宮城体育館南の五輪塔

2008年06月18日

●よもやま話「白樺牧場」

今、赤城山頂の新坂平・白樺牧場周辺のレンゲツツジが見頃を迎え、多くの人達の心を癒している。
宮城村初代村長、東宮六郎治の蔵書の中に「山岳・第七年 第二号」明治45年7月15日発行の本がある。以前、この本に掲載されている赤城の伝説について紹介した事があるが、今回は掲載添付されている白樺牧場の写真を紹介したくこの記事を書いた。
この写真は、以前、県の委嘱による覚満淵の動植物調査に来られた方々が複写されて行かれた事もある。明治45年(1912年)は明治最後の年であり、この年に大正と年号を変えた記念すべき年でもある。それから既に95年余の歳月が流れている。
東宮六郎冶の長男、東宮徳次郎(村長を歴任)の妻の父親である須田又八郎は、明治12年第一回県会議員選挙に南勢多郡より選出され、以来11年間在職。赤城湖氷会社、上毛馬車鉄道会社、赤城山森林組合、赤城山牛馬組合の設立に中心的役割を果たす。
また、前橋中学を自宅隣接地に誘致するなどしたが、明治30年、48歳にしてその生涯を閉じる。
恐らく、白樺牧場も須田又八郎等が中心になり作られたものなのだろう。
赤城山は笹ダニが多く牛の放牧は難しいと聞いた事があるが、白樺牧場の歴史は100年余りの長い歴史を刻んでいるのである。

東宮六郎治の蔵書「山岳」東宮六郎治の蔵書「山岳」

2008年04月07日

●よもやま話「金剛寺(苗ヶ島町)の枝垂桜とお角桜の仏縁」

金剛寺のしだれ桜 4月7日撮影金剛寺のしだれ桜が今年も見事に咲いている。
この桜は、昭和24年3月、松村覚三郎・北爪喜惣治・前原庄吉の三氏が寄進したと、樹の下の石碑に刻まれている。
桐生市新里町新川(藤生沢と言う)の新井家に「お角桜(おかくざくら)」と呼ばれる有名な桜があるが、そのお角の子を育てたと石碑には書かれている。只、石碑には桐原のお角桜・・・と書かれているが、桐原には該当する桜の木が無いので、寄進者が地名を間違えたのかも知れない。
桐原と藤生沢は隣接している。しかし、桐原は旧大間々町(現みどり市)で、藤生沢は旧新里村(現桐生市)である。
新井家の先祖が鎌倉時代に植えたと伝えられ近郷一の桜の名所であったが、昭和23年に初代は枯れてしまい、現在の桜は二代目であるとの事である。
桐生市新里町のお角桜 金剛寺の桜が植えられたのが昭和24年、お角が枯れたのが昭和23年なので、恐らく、この二つの桜は兄弟桜ではないだろうか??
植えられて既に60年近く経つが、苗として植えるには、恐らく5〜6年以上育てないと植えられないから、60年以上経っているかも知れない。

さて、仏縁と言うものは不思議なもの、現在の金剛寺本堂は今から230年前に再建されたが、再建したのは中興の祖と謳われた智海和尚と言う方である。
寺が焼失、苦難の日々を送りながら、何年も掛け浄財を集め、心血を注ぎ再建させたのある。
実はこの方はお角桜がある藤生沢の出身である。それも桜の直ぐ近くで、姓を深沢と称したと・・・何故ならば、智海和尚の姪が当時の我が家の当主に嫁いでいるからである。
我が家では、和尚を叔父坊と称していたと伝えられている。
和尚の生家裏の桜が二百有余年後に、その本堂を艶やかに彩るとは誰が想像したか。和尚も子供の頃に見たであろう桜が、自ら建てた寺を彩るとは・・・・これぞ正に仏の縁なり。和尚も近くの墓の中で、お花見をしているのではないだろうか。
もうじき、今年も金剛寺に於いて村祭りが、自治会主催で催される。昨年は参道にお店が出ませんでしたが、今年はお店が出るとの事にて、きっと大いに賑わうであろう。

2007年08月08日

●よもやま話「続編 楫取県令と斉藤多須久」

  先日、よもやま話「楫取県令と斉藤多須久」に「群馬県に於ける楫取素彦の治績を調べています。赤城村史の赤城神社の項に、楫取の漢詩が掲載されています。いつ頃のことか、何故来たのかその目的を知りたいと思っています。また、吉勝翁物がたりの湯之沢温泉沿革に項に、明治15年4月楫取来遊と書いてあります。これについても来た目的について知りたいと思っています。」というお尋ねがありましたので、「楫取県令と斉藤多須久」の続編ということで書きたいと思います。

斉藤多須久翁の碑(前橋市苗ヶ島町)斉藤多須久翁の碑(前橋市苗ヶ島町)    わたくしの自宅の裏手(前橋市苗ヶ島町)に金剛寺と言う真言宗豊山派の寺がありますが、それよりさらに少し上ると、左手に桜井商店と言う酒屋さんがあります。その斜め前が斉藤多須久翁の生家であります。孫の玉男先生(ゼームス坂病院長で高村光太郎の妻、智恵子の主治医)もそこで生を受けました。
   ご存じの通り、多須久翁は幕末に単身京に上がり医術を学び、また国学を学んだり、倒幕の志士達との交流等々を通し明治維新に関わった人々との交流があったと聞き及んでおります。自宅には、富士見村の船津伝治平翁もよく来られていたと伝えられております。
   さて、県令と斉藤翁の関係ですが、恐らく県令が群馬に任じられるに付き、事前に斉藤翁との接触があったと推察されます。県令との関係を紐解いていくと良く分かると思います。船津翁の活躍に付いても、県令と斉藤翁との関係が見え隠れしております。
   そして、湯之沢温泉に来遊した経緯に付いては、詩人の東宮七男が、後に奥様となられた方とお忍びで遊山に来られたと書いておりますが、それは事実では御座いません。当時の詳細に亘る記録が残されております。
   当家は、赤城山中に於いて湯宿を経営いたしておりますが、創業は元禄2年(1689年)で、時の前橋藩主、酒井公が領内総検地のため苗ヶ島村に来られ、本陣を金剛寺に置き、そこに宿泊したそうです。時の苗ヶ島村の名主が東宮家五代の祖、東宮平右衛門でした。その折り、温泉営業を願い出たのが始まりです。営業は、苗ヶ島村、金剛寺等も関与いたしております。しかし、翌年の元禄3年、三夜沢・赤城神社神官より、温泉場は神領である、苗ヶ島村の百姓共が勝手に入り込み湯宿を経営し始めたと幕府に訴えを出します。この辺の経緯については県史に詳しく書かれていると思います。その他、温泉が冷泉故に暖めなければ成らず、周りの山々の木々を切って薪に使用致しておりました、と同時に、室沢村(旧粕川村)の石原孫兵衛との関係があります。
   孫兵衛は前橋藩の認可のもとに大掛かりな炭の生産をやっておりました。為に、赤城南麓の森林が禿げ山になり、水害が多発し下村の住民は、湯宿の連中が勝手に木々を伐採するから里村に水が来ない、と藩に訴え出します。
   藩の許可を得て事業をやっている孫兵衛は訴えられないので、その責任を東宮家に向けたのです。しかし、何度訴えてもその訴えを藩は却下します。騒動が起きる度に温泉場は火を掛けられ、6回以上放火で燃えております。その紛擾事件は明治に入っても続きます。この入会紛擾事件は各地で多発致しておりました。その解決の為に県令が自ら現地視察に訪れたのであります。その経緯は詳しく記録されております。
   東宮家と県令との仲介の労をとって下さったのが斉藤翁です。県令現地訪問の知らせに、下村住民が三夜沢村に集結、代表者が湯之沢温泉に上がり県令に直訴したそうです。しかし、県令は、今日は遊山に来たのである、訴えはしかるべき道筋をとうして県に上げなさいと却下したそうです。この問題に付いては、事前に郡役所から、郡長自ら東宮家自宅に泊まり掛けで元禄時代からの古文書を詳細に調べ、そして現地視察、そして判決に至ります。判決に不服を持った住民に依り、明治18年、再度温泉場は灰燼にきします。その後、東宮家は温泉業を一時廃業、当時の当主、東宮六郎治は宮城村初代の村長に就任し昭和7年に没します。概略はこんな事であります。

2007年05月26日

●よもやま話「赤城の主出没」

  数日前に忠治温泉付近に熊が出没したようで、杉の木の皮をザックリと引き剥がし、生々しい痕跡を残していました。十数年前にもその付近より上の方で目視されています。赤城温泉付近に熊が出没したと言う記録はあまりありません。しかし、粕川町の中之沢地区には昔から良く出没し、農作物に被害を与えていました。
  赤城山には二ヶ所の棲家があると伝えられています。一ヶ所が粕川の源流の小沼周辺だそうで、そこに棲む熊が尾根伝いに中之沢に下りて来て農作物を荒らしているというものです。もう一ヶ所の棲家は鍋割にあるとの事で、そこに棲む熊が富士見村に出没したり、荒山の南斜面を動き回り柏倉などへ出没するんだそうです。宮城公民館に展示されている熊もその一族でしょう。
  赤城温泉付近に出没しだしたのは、忠治温泉〜滝沢温泉間に橋が出来たからではないでしょうか?その様な気がいたします。熊と言うのは一日に30キロ位動き回ると聞いた事がありますが、かなり広範囲に動き回るんですね。赤城山にはあまり食料になるような物が無く、彼等も生き残る為に必死なんでしょう。
  昨年は各地で熊出没と言うニュースが流れ、多くの熊が殺されました。できますれば、赤城の主は殺したく無い、何とか絶滅だけは回避したいですね。

2007年05月23日

●よもやま話「ドドメの想い出とふな休み」

  もう5月も余すところあとわずかとなってきました。赤城南麓も深い緑に包まれ田植えのシーズンがやって来ました。
  最近、都会から移り住んで来た人から「桑の木」が欲しい、桑の実を摘んで食べたいんです!!と言われました。その方が購入した宅地には、細い桑が生えていたので、これが桑です!と教えて差し上げました。その土地は昔、桑園であったのでしょう。いたる所に細い桑が生えています。しかし、どの桑の木も実を付けるのですが、味は無味だったり、渋かったり、酸っぱすぎたりです。
桑の実 ドドメ  そういえば昔も美味な味の実には辿り着かなかった様な記憶が残っています。旨い実のなる木は人気があり、思う存分食べる事ができませんでした。また、食べ頃を見計らっていたら、切られて禿げ坊主にされた木株を見る羽目になった事もあります。学校帰りに友達と桑の木を囲み両手を紫に染めて頬張り食べた想い出、帰宅してから今度は母親に怒られた想い出…口の周り、シャツは全て紫に変色…いくら怒られても、あの味の魅力には勝てませんでした。ドドメと称した桑の実の甘酸っぱい味と、ドドメ色に口の周りを染めた姿の想い出は田舎の子供達全てが持っていた筈です。
  そして、5月の下旬は蚕も「ふな休み」をします。ふな休みとは「三眠」すると言う意味で、御蚕様がふな休みをして下さるので「ふな餅」を作り御蚕様に供えます。
  ここまで無事にこれたと言う感謝の意を込めると共に、上蔟すると一週間位で繭に成るのでその間の中休みでもあるわけです。ふな餅は「アンピン餅」の事であり、家によっては蒸かし饅頭だったりします。たしか我が家は蒸かし饅頭だったような記憶があります。

2007年05月05日

●よもやま話「田島一族の紐解」

  大前田英五郎の足跡を追って、田島家の墓地を調べ、金剛寺の過去帳と照合しながら、そのルーツを追っていたら、迷路にはまり込み、抜け出せなくなってしまいました。
  たまたま、支所に出向いたら、大前田の後藤一さんに行き会いましたので、色々質問をぶつけて見ましたところ、大変な収穫に相成りました。
  田島家墓地南端の主は、現在赤堀にいらっしゃるという事を教えて戴きましたので、早速お手紙を書きファックスで送らせて戴いたところ、直ぐに返事が届きました。送った手紙と、ご返事はこのよもやま話に掲載させて戴く事とになりました。
  そのお手紙を元に調べてみたら、宮城村創立期の書記を務められたのが、田島先生の曾祖父である、田島義方さんであり、その前年の明治21年2月23日より、鼻毛石村外四ヶ村の戸長を務められていた事も判明いたしました。そして、義方さんのお父さんである、義賢さん(神官)は大前田で天保14年より〜明治20年迄、塾(読書・算盤)を開き、筆子の数は200人余であったとの記録がありました。

  草創期の宮城村役場の組織は
    村長  東宮 六郎治 明治22年5月就任
    助役  前原 秀雄      同
    収入役 大崎 藤次郎     同 
    書記  田島 義方  明治22年5月25日就職〜27年4月
    同   北爪 嘉重郎   同  6月5日 就職
    同   長岡 国太郎   同  6月8日 就職 
  これらの人達で、それぞれの事務を行っていたとの事です。

  祖父の義男さんも、明治43年9月1日〜大正2年11月17日、大正6年1月31日〜大正6年11月19日、大正11年10月31日〜昭和5年11月4日の期間、役場書記を勤めております。これは7代村長・阿久沢友次郎、8代村長・東宮徳次郎(筆者曾祖父)、9代村長・長岡朝太郎、10代村長・小池一郎、11代村長・前原勝馬、12代村長・阿久沢源吉、13代村長・北爪徳衛に至る7人の村長に仕えた事になります。
  辞められた昭和5年と言う年は、以前このよもやま話の中で書いた「減俸騒動」が起きた年です。恐らく、その事に起因して職を辞したと考えられます。
  縁(えにし)と言うものが如何に不思議なものであるのかを実感したしだいであります。
  北爪和男家の離れから始まり、我が曾祖父の父、初代村長・東宮六郎治へ、そして田島先生の曾祖父へと、限りなく糸がもつれ合いながら繋がって行くと言う不思議さ…!
  何よりも驚いたのは、元禄4年に112歳で亡くなられた大法寺の老母様まで続いているとは何と摩訶不思議な事か…!
  調べれば調べるほど摩訶不思議な事です。

[送った手紙(一部省略しております)]
  突然のお手紙で申し訳御座いません。私は一昨年より、赤城南麓交流村のホームページに「よもやま話」と言う取り留めもない宮城地区の昔話を投稿させて貰っております。その中で、大前田の田島英五郎の話や、妹等の話しを中心に少々書かせて貰っております。
  さて、前橋市の文化財指導員として、毎月田島家の墓地を訪れています関係で、田島家に少々興味を抱き調べさせて貰いましたところ、段々分からなくなっていきまして、つまり、田島家は本家・新宅のみと思っていたのですが、もう一家ある事が分かりました。大前田の人に聞きましたら、赤堀に子孫の方が住んでいるとの話しを伺い、先生にたどり着いた次第です。私の家は苗ヶ島の金剛寺と言う寺の檀家でして、田島家も明治迄は同じ金剛寺の檀家でした。金剛寺の過去帳を整理した関係で、少しだけ謎解きが出来る立場におります。過去帳と墓石を照合していますと、色々と判然としない部分が出て来まして、どうしても先生のお力が必要になって来た次第です。ご興味が無ければ仕方の無いことですが、大前田からどのような経緯で、現在地に移ったかの経緯や、先生が知り得る御先祖の事が分かれば有り難いのですが、宜敷お願い致します。

[送られてきた手紙(一部省略しております)]
  当方の患者に宮城村出身の女性がいて、「宮城から出た田島さんだよね」と言われ、更に私の家は「宮城の根っこだね」と言っておりました。しかし、祖先のことに関して肝心な申し送りを受けないうちに父が他界しましたので、小さい時から聞いていた事以上のものは申し上げられませんが、ここにお伝えいたしますので参考にしてください。
1 当家は代々長男で続いている家系で、どこかの分家ではありません。(但し17世紀以前は、はたしてどうであったかは不明ですが)
2 江戸時代には、神仏混交の寺をしていて、大法寺という名前でした。これは、僅かばかり残っている書付に、そう記されていますので間違いありません。昔は金銅仏があったそうですが、明治になってから処分したのか、誰かに譲ったのか、所在不明となっています。今、家には小さな寄木造りの行者様と、壊れた不動明王とほら貝しか昔を伝える物はありません。このことから、寺とは言ってもどこかの末端修験ではなかったのかと推測しています。
3 江戸時代末期の頃(中期以前は不明)、自宅で寺子屋をやっていた。
4 江戸の頃と思いますが、大人になると(元服すると)京都に上って地恩院に行ったそうです(事実かどうかわかりません)。何をしに行ったのかは不明です。
5 大前田から出たのは、私の曾祖父・義方で、宮城の官撰戸長や議員、前橋で新聞社をやったり、最後は東京に出てどこかの美術館の館長をしているときに没しました。多彩な人であったようで、宮城下の器量人と言われたそうです。祖父・義男は、宮城村に勤め、確か総務課長か何かであったようですが、「宮城を良くするには子どもの教育を高めることが重要で、そのためには"良い教師”を招くことが必要である。それゆえ、教師の賃金を上げ、優秀な教師を呼びたい。」という考え方を持っていたそうです。しかし、当時の村長と、これらの主張を含め様々な点で意見が合わず、ここにいても意味がないということで職を辞し、桐生市に出ました。そして、桐生市役所に奉職し、市長公室長(確か前原市長の頃だと思います)を勤めました。父・義泰は大戦から復員後、県職員となり、私義博は医師となり縁があって旧赤堀町で医院を開業し今日に至っています。
6 父が言うには、大前田英五郎と当家は関係はない。

  以上の如くであります。そろそろ自分の家のルーツ探しを始めるべく、まずは修験について知ろうと本を読み始めていた矢先に、あなた様からのご連絡があり、大変驚きました。良い機会でありますので何かわかりましたらご教示ください。