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2006年02月15日

●よもやま話「宮沢所得と斉藤多須久」

赤城温泉、「御宿 総本家」の裏山には、「暗きより出る名月の流れ哉」と彫られた句碑があります。作者は宮沢得所と言い沼田在住の神官でした。
  赤城温泉(旧称・湯の沢)は、赤城南麓から山越えして沼田に出る近道の途中に位置していたので、多くの旅人がこの温泉で旅の疲れを癒したとの話が伝わっています。
  宮沢得所先生は三夜沢の神官、真隅田家とも姻戚関係にありました。勿論、湯宿の主人、嶋屋平右衛門(御宿総本家先祖)との交流も浅からぬものがあったと伝えられています。
  さて、今回は、宮沢得所先生と斉藤多須久の関係を少々記したいと思います。

  1802年(享和2年)宮沢得所 利根郡沼田町八坂神社に生まれる。
  1809年(文化6年)権田直助 埼玉県入間郡毛呂山町に生まれる。
  1819年(文政2年)井上正香 前橋市西大室町に生まれる。
  1835年(天保6年)斉藤多須久 前橋市苗ヶ島町に生まれる。
  1843年(天保14年)宮沢得所句碑湯の沢温泉に造られる。

  斉藤多須久、赤城神社神官真隅田氏の紹介により、同氏の親戚である宮沢得所先生の門に入る。後に宮沢得所先生の媒酌で利根郡生品村(現川場村)戸部五兵衛の娘、常磐を娶る。
  1856年(安政3年)井上正香(38歳)、権田直助(48歳)先生の門人になる。
  1862年(文久2年)斉藤多須久(27歳)京都に上がり、官医錦小路家に入り医学を学ぶ。  

生麦事件、坂下門の変、寺田屋事件起きる。激動の時代をその震源地京都にて体感し、倒幕の志士と交わる。京都が戦乱の巷となった為帰国後、井上正香先生の紹介により権田直助先生の門に入る。  

  1866年(慶応2年)斉藤多須久、自宅の離れ屋6畳2部屋を新築し権田直助先生を迎える(直助58歳)。八代駒雄や平山義三の計7名同行。
  1867年(慶応3年)王政復古の年、権田直助先生古医道の事を井上頼国や井上正香、斉藤多須久に託し上洛、西郷隆盛等と国事に奔走す。
  1869年(明治2年)三夜沢赤城神社。斉藤多須久、小池文七郎等の尽力により復古神道の教えに則り再建される。
  権田直助先生、白川神祇伯家の学館を預かり皇学を教授、大学校が新設されると皇朝医道の教授となる。
  1870年(明治3年)赤城神社境内に神代文字の碑が平田鉄胤撰文、延胤神字、権田直助書により建てられる。

[宮沢所得の句碑]
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赤城温泉 御宿 総本家案内マップ

[三夜沢赤城神社 神代文字の碑]
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三夜沢赤城神社案内マップ

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