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2007年02月27日

●よもやま話「移築された家」

北爪佳彦家  前原要家を辞した後、北上して、北爪佳彦家を訪問する。総二階の立派な家である。何時も遠くから眺めているだけで訪問したのは初めてであった。この一帯が柏倉・北爪の巣窟で、佳彦家の裏が北爪の本家である。ソウクツ??なる文字を使うと、お叱りが??お許しあれ、無知な作者なもんで…!!
  鼻毛石から始まり…なんかほとんど北爪家関連ばかりな様な…意図的に書いている訳ではないのですが、如何に一族の勢力がこの一帯に蔓延っているかの証かも知れません。
  さて、写真を撮らせて下さいと、訪問した所、御当主の佳彦氏が出て来て下さり、お話を聞く事が出来ました。来訪の趣旨を説明すると、奥から古文書を持って来て見せて下さいました。

新宅之日記  表紙には「新宅之日記」と記され、裏には文政七年甲申歳十二月二十三日(1824年)と言う年号が記されておりました。お話によると、苗ヶ島村、荒屋敷からこの家を10両で買った時の記録であるとのお話をして下さいました。お許しを戴いて、古文書の全てをデジカメで撮らせて頂きました。最初のページに苗ヶ島村の直吉家の家(長さ9間2尺・横3間5尺・戸27本・障子8本・炉石2ヶ所・板坪4間)を買った事が記載がされておりました。何か「苗ヶ島」って言う名が出てくると、何だか知れませんが、探求心がフツフツと湧いて来るのです。写真に収録させて貰い、北爪家を辞し、外観写真を撮ろうとしたら、電池切れ…やむなく退散する事に…。
  家に戻り、新屋敷組の過去帳を開き、直吉なる名前を血眼になり探しましたが発見出来ませんでした。その次ぎに、五人組台帳の一覧表を調べていたら…??ウ〜ン…これは!!嘉永4年の記録の中に「金兵衛ー直吉」なる文字が…これだ!!って言う事で、再度、過去帳・墓石台帳を調べました。金兵衛の墓石が台帳上で確認出来ました。墓石には「文政五壬午六月十九日 覚鐘道O信士 北爪金兵衛」と刻まれていました。金兵衛さんが亡くなり、二年後に息子の直吉さんが居宅を売却!!、ピタリ一致と言っても良いでしょう。恐らく、同姓ですから、親戚関係かも??…可能性はあると考えられますが、原んち(鼻毛石・北爪)の世話で購入したとも伝えられているそうです。新屋敷の何処の家かって??プライベートの問題なんで、これから伺い、聞いてからの話…ゴメンナサイ!!
  それから、この家は移築当時、赤城型の家だったが、昭和5年に総二階に改築したそうです。
  当家の初代は北爪房右衛門(寛政十二年三月三日生まれ、明治十二年一月三十一日没、七十九歳)と言う方で、国指定の阿久沢家の出身で、裏の本家に婿養子に入り、後に当地に新宅に出たとの事。

新宅之日記  「新宅之日記」には、当時の移築の事が事細かく記載されておりますので、研究者にとって参考になるでしょう。因みに、助勢した人数は累計で232人、馬は累計で30匹などと記されていました。また、二月四日の大間々に於ける米相場は、一両で、八斗六升・小買で八十四文などと…。前に記した「馬場の豊嶋源右衛門家」の母屋は市之関の阿久沢一郎家(明治4年)に買い取られて移築されたそうですが、部落総出で屋根材の萱まで全て、大八車や運送を使い運んだそうです。
  裏の北爪家(柏倉北爪の本家)も、新しい家を母屋の東に建て、母屋は廃屋になりそうでした。
  西隣の北爪泰知家にも寄らせて見させて戴きましたが、とにかく骨組みのしっかりした豪壮な赤城型民家でした。明治2年の建築だそうで、内部は往時そのままに残されており、「おこんまやー」と呼ばれた場所もそのまま現存しておりましたが、現在は母屋前に、新住居を建て、無住でした。泰知さんのお婿さんは、阿久沢家(国指定)から来たそうです。屋根はトタンが被せてありますが、勾配が急で維持管理が大変であるとの話しでした。こんな素晴らしいを家を朽ちさせてしまうのは、何としても避けて欲しいと願うばかりです。

2007年02月26日

●赤城山の花々「まんさく」の花

未だ凍てつくような寒さの赤城山中にも、早春の足音が・・・
忠治温泉から少しのぼったいつもの場所で「まんさく」の花がひっそりと天空を見上げるように咲いていました。

情報提供:御宿 総本家 館主

2007年02月25日

●農業体験オーナーさん募集!*大前田花と人情の郷整備組合

前橋市大前田町でのんびりと農業を体験してみませんか!!
大前田花と人情の郷整備組合では、農業体験オーナーさんを募集しています。

 ジャガイモのオーナーさん 1区画(50m2) 7,000円
 そばのオーナーさん 1区画(50m2 7,000円
 米のオーナーさん Aコース(50m2 7,000円〜


詳しいことは、下記のチラシ(PDFファイル)をご覧ください。
農業体験募集チラシ(PDFファイル)

大前田花と人情の郷整備組合平成19年2月25日(日)農業体験オーナーさんの説明会が行われました。
まだまだオーナーさんを募集しています。
多くの方のご参加をお待ちしております!!


お問い合わせ・申込先
大前田花と人情の郷整備組合 組合長 磯田道則
電話 090-3312-5627

2007年02月24日

●赤城南面千本桜まつり「さくら新聞 2007年号」

赤城南面千本桜まつりで毎年発行している「さくら新聞」が、今年も発行となりました。

(財)前橋観光コンベンション協会、赤城南面千本桜まつり実行委員会(前橋市宮城支所)で配布中です。




PDFファイルでご覧いただけます。(下記をクリックしてください)
さくら新聞(NO1) PDFファイル
さくら新聞(NO2) PDFファイル

 問い合わせ先
(財)前橋観光コンベンション協会 Tel.027-235-2211
(財)前橋観光コンベンション協会宮城支部 Tel.027-283-2131
赤城南面千本桜まつり実行委員会 Tel.027-283-2131

●よもやま話「柏倉南端の古民家」

  鼻毛石町の北爪家を訪問した後、柏倉町に向かった。荒砥川に掛かる神沢橋を渡り、左に折れ、堀の内・西屋敷の北爪元二家を訪ねる。高い所から遠望すると、この場所が掘りに囲まれた屋敷地である事が良く分かる。六本木一族の砦跡との事である。
北爪元二家    堀の内、西屋敷等の名が往時を偲ばせている。この家は明治時代に建てられたが、これを建てた大工は箱田のかっちゃんち(家)や三夜沢でも家を建てたと聞いているとの話しを元二さんがして下さった。
  うちは、鼻毛石の北爪の分家で、柏倉の北爪とは関係無い。初代は元禄7年に亡くなっているとの事である。昭和18年頃、防空壕を掘る為に裏山を掘ったら、石に囲まれた所から、箕(ミ)に一杯の古銭が出て来たとの話しを聞かせて貰った。この北爪家、その隣の六本木家、その隣の阿久沢家全てを含めた敷地が砦の敷地であった。左隣の阿久沢家の屋敷は元々、六本木屋敷で、鼻毛石在住の六本木剛さんの先祖が住んでいた。当時の石垣が江戸時代の六本木家の家格の名残を今に伝えている。

  六本木家の石垣上に建てられていた長屋門は幾多の変遷を経て、現在、苗ヶ島に移築(近年大幅に改修され、往時の名残無し)されている。元二家から出土した古銭は、六本木氏の先祖が貯えた物であろう。ただ、戦国期の古銭は鐚銭(ビタセン)と称し粗悪銭であり、現在もあまり価値の無い物である。ビタとは金へんに悪と書く通り、悪銭と言う意味であり、ビタ一文払えないとの語源はここから来ていると言う、主に中国大陸からの輸入銭である。

前原要家   次ぎに、近くにある、前原要家を訪問した。前原さんにお聞きしたら、140年前頃建てられたとの事と、前原健一さんの新宅であるとのお答えであった。
  桑原先生の報告書には、「言い伝えによると、天保14年に生まれた先祖の弥一郎が七歳の時に建てた」との事にて、嘉永2〜3年頃の建築であろうと記されていた。

2007年02月23日

●よもやま話「宮城村創立期に役場として使われた離れが現存していた」

  群馬県教育委員会が昭和56年3月30日に発行した、群馬県民俗調査報告書第二十三集「宮城村の民俗」の234ページに「宮城村の民家」の項目がある。この調査をされたのは、前橋の桑原稔先生(当時国立豊田高等工業専門学校助教授)と、先生の助手を務められた、田島豊穂さん、村田敬一さん等である。先生が宮城村で最初に調査を始められたのは昭和42年だそうで、当時、前橋工業高校に勤められ前工の生徒を使い調査されたとの事である。

  この報告書の中には、「市之関・2軒」、「柏倉・7軒」、「苗ヶ島・4軒」、鼻毛石・5軒」、「三夜沢・1軒」、「馬場・1軒」の総計21軒の家が収録されている。調査対象は江戸時代から大正初年頃迄に建造された農家及び町屋等である。宮城地内の対象家屋全ては農家である。また、今回の調査報告を先生は「第二次調査民家」としている。

  私も苗ヶ島の自宅を調査して頂いた関係から、桑原先生には公私ともお世話になっております。今回、調査当時の家がどの位、現存しているか確認しようと思い立ち、数日前(平成19年2月12日)より、調査を始めた。

  最初は、鼻毛石町の北爪寿雄家へ出向いた。玄関には、鼻毛石町自治会長の真新しい看板が掲げられていた。寿雄さんの息子である和男さんが自治会長を務められている。寿雄さんの奥様に写真を撮らせて欲しい旨をお伝えすると、私を快くお迎え下さり、色々とご説明下された。とにかく寸分の隙も無い程、屋敷回りや外観が綺麗に整備されいた。そして、表玄関の「大戸」がそのままの状態で使用されていたのには驚かされた。それも、新しい板に張り替えられていたが、完璧に旧来通りに保存されていると言って良いだろう。トブグチ(玄関)向かって左側の「いとざま」も綺麗に保存されていた。屋根はトタンで覆われていた(昭和60年頃)が、これは仕方無い事と思う。

  また、西南部には「トウデイ」と呼ばれる小さな平屋の建物がある。宮城村創立直前の、鼻毛石村、柏倉村、市之関村、三夜沢村、大前田村の五ヶ村の戸長役場として、この北爪家の離れが使われていた。明治22年、宮城村が成立し、戸長役場は廃止されたが、初代村長・東宮六郎治の時は、この離れを役場として利用、二代村長・前原甚太郎の時に、赤城寺の東に移転、その後、現在の英霊殿の所へ、明治29年に現在地に移転し、今日に至るのである。現在は瓦葺きであるが、昔は萱葺きであったとの事、昭和63年頃に改修したらしい。外見は往時の面影はない。隠居屋として使われたらしいが、客間として作られた建物ではないでしょうか。何れにしても、この家を家族全員が大切に守っている事を熱く感じた。

  家の中にいた和男さんが、「あっちゃんに聞きたい事があった」と言って出て来て、屋敷の西角にある墓地に案内された。かつての北爪一門の優勢を見る事のできる墓石群である。元々は他所にあったのを先祖が移転したとの事、また、墓石の並べ替えも何度かやったらしいと。先祖と言われている方の墓石には「帰峯権大僧都道圓法印・元禄十二年」と言う院号が刻まれていた。法印の院号が付与されていると言う事は、修験道の庵を持っていたのかもしれない。地侍から農民に変わって行く過程で、権威の象徴的な余韻??かも。大前田の北爪家しかり、増田の北爪家しかりである。当家の先祖も地侍から修験道の家に変わったと伝えられている事を見ても類似性が伺える。

  その墓石群の中に、宮城尋常小学校長 石川金蔵 三女と刻まれた小さな墓石がある。北爪さんのお尋ねは、宮城小学校の初代校長の娘の墓で、当時、先祖が村役をしていた関係で、死亡した校長のお嬢さんをこの所に埋葬したと聞いていると。しかし、小学校の校長室には石川金蔵の名前が無いとの問である。私は、石川金蔵と言う名に聞き覚えがあるが、帰って調べて見ないと即答はできかねるとお答えし、北爪家を辞した。

  宮城村史を紐解いて見たら、確かに、石川先生の事が随所に出て来た。娘さんが亡くなられた明治25年当時の学校についての事を調べて行くと、明治初年から明治26年頃まで、幾多の変遷があった事をうかがい知る事ができた。明治22年4月に宮城村が誕生。明治23年に学区改正により、宮城尋常小学校なる組織ができる。

  明治20年、鼻石尋常小学校・苗ヶ島尋常小学校と改称、そして明治23年、宮城尋常小学校に改称、しかし、宮城尋常小学校第一仮分教場(苗ヶ島校)と宮城尋常小学校第二仮分教場(大前田)に分かれていた。そして、明治26年1月19日に、宮城尋常高等小学校と改称したのです。なにやら、こんがらかって訳が分からなくなってしまいましたが、石川金蔵校長先生は、26年の改称前の宮城尋常小学校の校長先生を務められたのだと思います。ですから、明治26年からの校長先生が歴代校長として認められ、校長室に写真掲示されているのでしょう。

2007年02月18日

●「好きですまえばし」第25号

好きですまえばし(財)前橋観光コンベンション協会の情報誌「好きですまえばし」の第25号が発行となりました!

今号は、「全国に誇る豚肉のまち前橋」がテーマで、前橋と豚肉文化の関係や、市内オススメ豚肉料理店の紹介などが紹介されています。
その他にも、前橋のんびり旅として宮城地区編などなど盛りだくさんの内容です。

この「好きです前橋」は、前橋市役所のほか大胡・宮城・粕川の3支所、前橋中央郵便局、前橋商工会議所、市内各公民館などで配布中です。

 好きですまえばしPDF版


問い合わせ先

財団法人前橋観光コンベンション協会
〒371-0017 群馬県前橋市日吉町一丁目8-1 前橋商工会議所会館4F
Tel.027-235-2211 Fax.027-235-2233
(財)前橋観光コンベンション協会ホームページ

2007年02月10日

●よもやま話「英霊殿」

英霊殿  前回に引き続き60年余り前に亡くなられた、英霊の方々の事を少しだけ書きたいと思います。
  宮城支所裏の英霊殿も、前宮城村長桜井敏道氏や前議会議長阿久沢徳男氏等の議会議員の皆さん方の奔走と遺族会の皆様方の合意により、既に移転候補地が決定されております。新しい支所の建設と同時に新天地に移転が成されるでしょう。
  平成9年に発刊された「戦没英霊録」を紐解くと、当時の金子浩会長以下の役員の皆様方の並々ならない努力の足跡を知る事が出来ます。古くは西南の役から始まり、日清日露の戦い、そして、今時大戦に至まで事細かに網羅しておりました。戦没者総数は271柱(戦後転入3柱を含む)だそうです。

      鼻毛石  69柱
      柏 倉  67柱
      市之関  26柱
      三夜澤   3柱
      苗ヶ島  48柱
      馬 場  21柱
      大前田  37柱
      合 計 271柱

  昭和12〜18年頃までは、中国大陸(満州を含む)に於いての戦死者は毎年5名位でした。しかし、戦線が南方地域に拡大すると共に、戦死者の数が一段と増大傾向に向かい始めます。
  昭和19年には、中国大陸で8名余り、ビルマ方面で20名余り、南方諸島(ニューギニアを含む)50名余り、フィリッピンで14名余りの戦死者が出ます。
  昭和20年には、中国大陸で3名余り、ビルマで4名余り、南方諸島で19名余り、フィリッピンで31名余りと言う具合に、この2カ年余りの間に戦死者が集中しているのです。その他、沖縄、小笠原、硫黄島、北方等々の地で亡くなられた方々がおります。
  また敗戦後にシベリアの捕虜収容所等で、また、中国大陸で亡くなられた方々もおります。この中の多くの方々は正確な、戦死場所、年月日、遺骨等の返還さえ、なされていない方々が数多くいらっしゃる事と思います。
  30年位前、大前田の中沢さんと言う方からインパール作戦と言われた、ビルマでの筆舌し難い程の凄惨な戦場体験を聞かされた記憶が未だに忘れられません。牟田口軍司令官による、インドへの侵攻作戦だったそうです。無謀な作戦により多くの将兵が倒れ、屍が累々と横たわっていたそうですが、その多くが餓死やマラリアに起因するものであったとの事、また、ニューギニアでの戦いでも大半が餓死やマラリアであったと戦争体験者が語っております。
  我々は戦禍で倒れた多くの郷里の先輩達の、果たしえなかった思いを後世に伝える義務があると思います。今後も、昨今タブーになりつつある戦争等の話しを、少しづつ取り上げられたら良いなあと思っております。

2007年02月09日

●よもやま話「硫黄島での戦いに倒れた村の青年達」

  今、「硫黄島」と言う題名の映画が放映されている。太平洋戦争の中でも、もつとも熾烈な戦いで、日米双方に甚大な被害を出した戦であったと、伝えられている。
  クリント・イーストウッド監督のこの映画は、「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」の二部作からなり、日米双方からの立場で制作された映画である。
  迎え撃つ、日本軍は栗林中将率いる「小笠原兵団109師団」・市丸海軍少将率いる「混成第2旅団第27航空戦隊」・その他、陸海軍将兵・軍属・特年兵・島民130人(軍属)の22,923名。攻撃側の米軍は、艦船800隻・航空機4000機・25万人と言う桁違いな総兵力を持って硫黄島を攻撃したのである。
  昭和20年2月16日からの戦闘で日本軍は、総兵力22,923人の内、21,890人余の戦死者を出したのである。生き残った者は僅か、1,033人であったとの事。
  米軍も戦死者6,821人、負傷者実に21,865人と言う甚大な被害を被ったのである。
  宮城地区からも、応召して戦死した方々が数名いる。平成9年に、旧宮城村・旧社会福祉協議会・遺族会によって発刊された「戦没英霊録」を紐解いて見た。
  6名の方々が硫黄島で戦死なされておりました。

    北爪 正三 氏  階級・陸軍兵長
    所属部隊・東部第76部隊より栗林部隊に編入
    戦没月日・昭和20年3月17日(32歳)

    大崎 健次 氏  階級・海軍上等水兵 横須賀海兵団
    戦没月日・昭和20年6月15日(28歳)

    大崎 四郎 氏  階級・陸軍兵長 所属部隊・横須賀重砲18327部隊池田隊
    戦没月日・昭和20年3月17日(26歳)

    市川 為雄 氏  階級・海軍上等水兵
    戦没月日・昭和20年3月17日(34歳)

    前原 惣治 氏  階級・陸軍兵長 所属部隊・赤羽独立工兵第21連隊
    戦没月日・昭和20年3月17日(28歳)

    後藤 祐 氏  階級・海軍中尉
    戦没月日・昭和20年3月17日(41歳)

  上記の6名の方々の内、5名の方は緒戦の段階で戦死をなされておりましたが、大崎健次さんは最後の最後まで生存されていたのでしょうか、その頃に最後の抵抗が終息したと記録されております。
  筆者の学生時代の恩師(英語)は、旧陸軍大佐で大本営の連絡参謀をなされていて,硫黄島の攻防が始まる直前に最後の航空便で本土に帰還した話しを授業中にして下さった記憶があります。また、東宮大佐とは知り合いであったとも言っておりました。
  また、先生は防衛省の戦史室にある、トルーマン回顧録の翻訳にも携わったと。その他、グアム島で開かれた、軍事法廷に通訳として出席した話しをもされておりました。…内容ですか、日本軍による人肉事件…何でも、飢餓では無く、戦意鼓舞の為に捕虜の米兵を喰ってしまった話し…それも偉い人の命令で…遺族に何と説明して良いか??この件は秘密裏に処理されたそうです。
  戦争とは、人を狂気に走らせてしまうもの…勝者敗者どちらが正しいかを論ずる事は無理だと思います。勝者のみが正しいとされていますが、どちらの兵士達も、ただ国の命令に従い、逆らう事も出来ずに殉じて行ったと思います。二度と起こしてはいけませんが、しかし降りかかる火の粉を、振り払わなければ…。

2007年02月08日

●さくらの切手「さくら紀行関東50選群馬編」

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日本郵政公社関東支社は、平成19年2月9日(金)から、桜の開花時期にあわせた、各県ごとの10ヶ所の桜の名所をデザインした「さくら紀行関東50選」(オリジナルフレーム切手)を関東5県の郵便局で販売します。
群馬編には、前橋市から敷島公園と赤城南面千本桜が選ばれており、群馬編のシートは千本桜でデザインされています。
販売は県内の郵便局で5月8日(火)までのようです。

日本郵政公社関東支社報道発表資料

2007年02月04日

●よもやま話「二月の年中行事」

 2月1日は言わずと知れた「次郎の一日(ついたち)」と呼ばれていた日である。今、果たしてどれだけの人が、こう呼んでいるだろうか??
 次郎の一日だから仕事を休む?? 多分皆無だと思う。節気ごとの年中行事が忘れられて行くのは仕方ない事かも知れない。何故ならば、生活習慣、農村社会の構造が激変したのに他ならないと思う。純粋の農業生産で生活している人がどれだけいるのだろう。片手間に田畑を耕している割合の方が多いいのでは無いのでしょうか。
 昔は、次郎の一日は「黄金(こがね)で祝うと言って、粟強飯を炊いて、神様に供えて、お祝いをしていましたが、既にアワさえ手に入らなくなってしまったのでは無いでしょうか。

 2月2日は、奉公人や子守を雇っていた家は、それ等の人達に一週間程度の休みをやった日であった。

 2月3日は、節分、言わずと知れた「福は内・福は内・鬼は外!!」である。神棚から始まり、家の中が終わると、稲荷様や藏の前・外便所・井戸・などで、「鬼は外!!」と、年男が、でけ〜声を張り上げて、鬼を追っ払った。
 その節分の豆を煎る時、イワシの頭をザンマタのある木(ナラの小枝や桑の枝等々)に挿し、囲炉裏の火の側に立てて、豆を煎るんです。その時に、それをあぶりながら、呪文を唱える様に、そのザンマタの木に唾(つば)をペッ・ペッっとはきかけながら「虫の口を焼き申す、四十八種の虫の口…アオムシ・テントウムシ・アブラムシ・シャッキリムシ・等々」知り得る虫の名前を挙げながら呪文の様に…。そして、火にくべるのは、ナス・菊・豆の枝で、何故かと言いますと、ナスは「借金をナス」、菊は「良い事をキク」、豆は「マメに働く」とね!!
 この一連の作業を「ヤカガシ」と言っていました。
 初牛の日は、マユ玉を作り、神棚に上げた。この時は、木にはささないで、一升瓶に詰めたりして上げた。勿論、蚕がとれる様にと念じながら、蚕神様にね!!

 2月8日は、コト八日(コトハジメ)と言い、メカイ(荒目の笊??ザルと読む)の中にヒイラギの枝を挿して庭先に飾った。ヒイラギの木やエンジュの木は、魔除けの木として屋敷に植えられていた。「カドにヒイラギ・セドにエンジュ…門に柊・背戸に…とね」ヒイラギは泥棒除け?? エンジュは魔除け?? かもね!!

 エンジュって知っています?? 槐と書く、当て字は延寿と…寿命を延ばすめでたい木と(薬用効果あり)、マメ科の落葉高木で、偽アカシアに似ています。

2007年02月01日

●よもやま話「消えた寺の痕跡「諏訪神社別当寺」」

  いつの間にか、宮城地区の中で一番の物知り爺さんになっていた??それ…本当だろうか??実の所私にも分からない…しかし、知っている事、聞いた事、知り得た事はいくらか書いて置きます。後、どの位生きられるか分かりませんが。
  いま世の中は目まぐるしく変化しています。昔なら、人海戦術(部落総出)で土を動かし、石を動かし、建物を動かしていましたが、今は大型重機を使い、あっと云う間にやってしまう。知らぬ間に山が出来ていたり、山や丘が消えていたり、川や池が埋め立てられたり、地形の変貌は当たり前の光景になってしまいました。人は平気で先人が営々と築いた良田や歴史的価値のある所を、耕地整理とか何とか言う名目で壊してしまう愚行を犯す。正に、宮城地区も例外ではない。そして、時と共に全て忘れ去られて行ってしまう、何と悲しい事か。部落総出でやった事は誰かが、その時に起こった事を後世に伝えられるが、余りにも個人主義が尊重され過ぎている現在に於いては、何が起きても他人事…知っても知らない振りを装う、悲しい事である。先日も、とある会合の席で、子供達に協力して貰えば、子供達の為に…今のお母さん達は非協力的…えっ!!…ああ〜時代が違うんだ〜…、その話しを聞き、唖然とした次第である。戦後教育の悪例・我々世代の子育ての間違いを痛感した次第です。これは誰も責められない、日本人全体が犯した過ちと認識せずばなるまい。まあしかし、私の回りにいる青年達、世間の大人達からあまり評価されていない??、彼等の方が遙かに素晴らしい物を持っている。大人の目線で見てはいけないのかも知れないし、我々の尺度での判断は現に慎むべきなのかも知れない。同輩から聞いた話しを鵜呑みにするのか、彼等の側に立って、彼等の言行を理解し、双方のギャップをどう埋るのか、果たして出来るのか??永遠の課題・・何時の時代にも起きていたのかも??
  なんか難しい話しを支離滅裂に論じ過ぎた???…ただ黙々と、過去に起きた話しを書けば良い!!スミマセン!!
  時として、宮城地内の文化財を巡視していると、先人達による愚行も目に付きますもので、まあ、評価は時として一変しますので、何とも言えませんが…。 昨年、大前田地区にある墓地の一角で、素晴らしい五輪塔や無縫塔に遭遇いたしました。それ自体は余り古い墓石ではありませんでしたが、本当に立派な物です。今回、再訪した所、雑草に覆われ、五輪塔を見る事が出来ませんでした。
  聞く所によると、諏訪神社前のゲートボール場の辺りにあったのを移転したとの事でした。邪魔になったから、丁重に移転した??と理解しましたが、元の場所近くか、神社境内に移して欲しかったと思いました。坊主の墓石だから無理だって!!私はそうは思いませんが…先人がその徳を偲び造立したものなのですから…。 

法印権大僧都祐慶
   O宝永七庚 
                寅
   歳仲秋造

 
安永五丙十月廿日
      申
   中興開山法印決山

 
前総持当庵四世
万寿六代祖雄天苗
大和尚禅師
   文政丙七月五日
       戌
   尾陽之人事 (尾張出身?) 


大応牧僊和尚
安政四丁
     巳 (筆子の氏名が刻まれている) 
年十月二日   雲陽之産人 (出雲出身?) 


月鉤如津首座和尚 

  以上の五基と、数基の墓石を神社前から移転したそうです。
  この禅宗の寺は神社の東にあったそうで、旧後藤一太郎宅(現在無し)の事を、寺の後ろと称していたとの事。檀家は大胡の金藏院に引き継がれたそうだ。諏訪神社はこの寺の支配下にあり、この寺が別当寺であったのだろう。
  また、住職が村人達に読み書きを教えていたのか、墓石の台石に筆子達の名前が刻まれていた。それから明治初年には、此処で大前田学校が開かれたとの記録が残っている。
  篠薮に覆われた墓石群は数基が倒れたりして、無惨な姿を晒している。乞い願わくば、篠を刈り、墓石を起き上らせて欲しい。これは地域の人達の務めでは無かろうか??と同時に、寺と墓地の事を、末永く地域の人達に伝えて欲しい。