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2007年02月27日

●よもやま話「移築された家」

北爪佳彦家  前原要家を辞した後、北上して、北爪佳彦家を訪問する。総二階の立派な家である。何時も遠くから眺めているだけで訪問したのは初めてであった。この一帯が柏倉・北爪の巣窟で、佳彦家の裏が北爪の本家である。ソウクツ??なる文字を使うと、お叱りが??お許しあれ、無知な作者なもんで…!!
  鼻毛石から始まり…なんかほとんど北爪家関連ばかりな様な…意図的に書いている訳ではないのですが、如何に一族の勢力がこの一帯に蔓延っているかの証かも知れません。
  さて、写真を撮らせて下さいと、訪問した所、御当主の佳彦氏が出て来て下さり、お話を聞く事が出来ました。来訪の趣旨を説明すると、奥から古文書を持って来て見せて下さいました。

新宅之日記  表紙には「新宅之日記」と記され、裏には文政七年甲申歳十二月二十三日(1824年)と言う年号が記されておりました。お話によると、苗ヶ島村、荒屋敷からこの家を10両で買った時の記録であるとのお話をして下さいました。お許しを戴いて、古文書の全てをデジカメで撮らせて頂きました。最初のページに苗ヶ島村の直吉家の家(長さ9間2尺・横3間5尺・戸27本・障子8本・炉石2ヶ所・板坪4間)を買った事が記載がされておりました。何か「苗ヶ島」って言う名が出てくると、何だか知れませんが、探求心がフツフツと湧いて来るのです。写真に収録させて貰い、北爪家を辞し、外観写真を撮ろうとしたら、電池切れ…やむなく退散する事に…。
  家に戻り、新屋敷組の過去帳を開き、直吉なる名前を血眼になり探しましたが発見出来ませんでした。その次ぎに、五人組台帳の一覧表を調べていたら…??ウ〜ン…これは!!嘉永4年の記録の中に「金兵衛ー直吉」なる文字が…これだ!!って言う事で、再度、過去帳・墓石台帳を調べました。金兵衛の墓石が台帳上で確認出来ました。墓石には「文政五壬午六月十九日 覚鐘道O信士 北爪金兵衛」と刻まれていました。金兵衛さんが亡くなり、二年後に息子の直吉さんが居宅を売却!!、ピタリ一致と言っても良いでしょう。恐らく、同姓ですから、親戚関係かも??…可能性はあると考えられますが、原んち(鼻毛石・北爪)の世話で購入したとも伝えられているそうです。新屋敷の何処の家かって??プライベートの問題なんで、これから伺い、聞いてからの話…ゴメンナサイ!!
  それから、この家は移築当時、赤城型の家だったが、昭和5年に総二階に改築したそうです。
  当家の初代は北爪房右衛門(寛政十二年三月三日生まれ、明治十二年一月三十一日没、七十九歳)と言う方で、国指定の阿久沢家の出身で、裏の本家に婿養子に入り、後に当地に新宅に出たとの事。

新宅之日記  「新宅之日記」には、当時の移築の事が事細かく記載されておりますので、研究者にとって参考になるでしょう。因みに、助勢した人数は累計で232人、馬は累計で30匹などと記されていました。また、二月四日の大間々に於ける米相場は、一両で、八斗六升・小買で八十四文などと…。前に記した「馬場の豊嶋源右衛門家」の母屋は市之関の阿久沢一郎家(明治4年)に買い取られて移築されたそうですが、部落総出で屋根材の萱まで全て、大八車や運送を使い運んだそうです。
  裏の北爪家(柏倉北爪の本家)も、新しい家を母屋の東に建て、母屋は廃屋になりそうでした。
  西隣の北爪泰知家にも寄らせて見させて戴きましたが、とにかく骨組みのしっかりした豪壮な赤城型民家でした。明治2年の建築だそうで、内部は往時そのままに残されており、「おこんまやー」と呼ばれた場所もそのまま現存しておりましたが、現在は母屋前に、新住居を建て、無住でした。泰知さんのお婿さんは、阿久沢家(国指定)から来たそうです。屋根はトタンが被せてありますが、勾配が急で維持管理が大変であるとの話しでした。こんな素晴らしいを家を朽ちさせてしまうのは、何としても避けて欲しいと願うばかりです。

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