2006年07月30日
2006年07月27日
●赤城山の花々
2006年07月25日
●夏休み!足立と宮城の農村交流会
2006年07月21日
●赤城山の花々
2006年07月19日
●よもやま話「北爪氏と女渕衆」
苗ケ島城・苗ケ島本城・柏倉砦・市之関城・大前田城等々が、この宮城地区にはある。城と言っても、堀を巡らし、柵を巡らした砦程度の構造であろう。桐生にある国指定の彦部家を見学したら良い。その程度の物である。大名が建てた城を連想されては困る。
苗ケ島城には阿久沢氏が、柏倉には大崎氏の砦と六本木氏の砦が、市之関には阿久沢氏の城が、大前田も阿久沢氏が城主として活躍していたらしい。何故なら現在も彼等の子孫が、そこに住んでいる。そして現在も、その子孫の末裔達は、地区でリーダーシップを取っている。牛耳っている!!??何んて言葉を使っては、お叱りを受ける??かも…。故阿久沢嘉重郎元村長や赤城南麓森林組合長の阿久沢勝史氏等が、その末裔である。地区の人であれば、よく御理解して戴けるであろう。
その他の地区の子孫の方々も各方面で活躍している。しかし、鼻ケ石の北爪氏は地区内に城跡の痕跡が無い…何故なのだろう…将監達の活躍は目覚ましいものがあったというのに…。
多分、それらの人々より、一ランク上の規模で活躍していた…のでは…と、と同時に粕川町にある女渕城を本拠地として…。
阿久沢一門の紋所は表紋・裏紋の区別を別にすれば、ミツウロコを使用している。ミツウロコは小田原の北条氏の紋所である。この地区の土豪達が、その組下で活躍していた証拠である。
今、NHKの大河ドラマで放映されている、山内一豊の主人豊臣秀吉がいよいよ天下統一に動きだした場面をやっているが、正に関東の覇者、北条攻めが始まろうとしている。その任を任されたのが、徳川家康である。そして、迎え討つ側の北条軍に加わっていたのが、我々の先祖達であった。
名胡桃城事件を理由に豊臣軍の上野侵攻が開始されるのは、天正17年である。徳川家康に小田原征伐の命令が出されたのはその年の12月13日であった。そして、北条氏は、支配地域全域に軍事動員を掛ける。猫もシャクシにも槍・鉄砲を持たせ??まるで、60有余年前の敗戦直前…の様…??。根こそぎ動員を掛け臨戦態勢を敷いた記録が他県には残っている。上州では、そこまででは無かったらしいが、何れにしても臨戦態勢は敷かれた。
その年の2月21日、北条氏直が女渕五郷(女渕・鼻毛石・苗ケ島・友成・深津)の女渕地衆と呼ばれる者共を組織化している記録が残っている。税金を免除してやるから働け!!と言う訳である。その記録の中に出て来る北爪一門に関する名前は、北爪大藏・北爪将監・北爪甚内・北爪与兵衛・北爪大膳・北爪織部等である。女渕衆の構成員には、阿久沢氏や六本木氏の名は見られない。彼等は違う集団を組んでいたのであろう。
そして、豊臣氏の前に崩れ去る小田原北条氏…。負け組…に組した我々の先祖達は徳川氏の下で帰農していったのである。一部、優秀な剛の者は、徳川軍の中に拾われて行った。ある者は、加賀・前田家に仕官した者も…。
女渕城跡は一見の価値あり!!北爪一門を中心とした女渕衆が守った城跡である。
2006年07月18日
●よもやま話「マーセンボウ」
最近、我が家を訪れた女の子(小学校低学年)が、階段脇に飾られている柱を見て「馬屋」(うまや)のだ!!っと、言ったので驚いた。
その柱を見て「馬小屋」のマーセンボウ??(馬小屋の馬を出し入れする際に外す横掛けの棒)と(柱は棒を外す仕掛けのが付いている)を掛ける柱だと知っている人は皆無に等しい。60才以上の農家育ちの人は別であるが…。
2年程前、30代の女性で知っている方がいたのでビックリしたのに…今回は小学生…それに、マーセンボウと言う言葉も知っていた??
その子のお父さんに聞いたら、ポニーの乗馬クラブ(長野・伊那市)に通っているとの事、そして、そこでは、それが使われている由。死語に成っていない事を知り安堵した。
かつて、何処の農家でも、玄関奥に馬小屋があり、家族の一員の様に大事に飼われていたことを覚えている。馬小屋の事を「オコンマヤー」と言う。多分、奥馬屋(おくうまや)から来た言葉だろう。
耕耘機が導入される以前は、農家にとって、耕耘機であり、4駆の軽トラに匹敵する大切な物であった。江戸時代の五人組帳にも、持ち馬の匹数が書かれていた。
そうそう、話は逸れるが、六郎治日記にこんな記載がありました。
伊勢崎藩士にして「馬術の達人・石川三藏」、「手裏剣達人・大橋ムラク」と。
その他、「競馬の話」として、競馬は(一)国民の愛馬思想を高め。(二)乗馬の程度を進め。(三)国民元気を旺盛にし。(四)馬匹の需用を促進する利益あり。
世界第一の競馬は豪州連邦ビクトリア州に於ける「メルボルンキャッツ」で、次ぎが巴里(パリ)の競馬場、両方共春秋二期に行う。豪州が日本貨幣にして拾五万円。巴里は八万円と言う。明治三九年五月、関八州競馬会(東京池ノ端馬場)、第九回競争(打留)。
第一着、金八十円と来国俊の刀一口。第二着、金三十五円に同刀。第三着は金十円に無名刀の賞与なり。(追記、来国俊の刀は銘刀なり)
2006年07月13日
●よもやま話「39もの首を取った強者」
戦国の世に39の首を取った男が、この南麓から輩出していた。
その名を「北爪右馬助」と言う。戦国時代の永禄6年(1563年)、北爪助八は軍功により、館林の長尾景長より狸塚・篠塚・石打等の所領を拝領している。その助八の子が北爪将監である。将監の他の兄弟もそれぞれ、北条氏邦の配下として活躍している。
当時、複数の「北爪」を名乗る者共がいた事が記録に残っている。北爪出羽守長秀や新八郎等6〜7人の名が出てくる。彼等は「女淵地衆」と言う集団を組んで活躍していた(北爪宗家に当時の中世文書あり)。現在も鼻ヶ石・大前田・苗ヶ島・室沢等々に北爪を名乗る一族が多く住んでいる。
鼻ヶ石町の赤城寺が北爪一門の氏寺であるとの伝承を信ずるとすれば、了需の興した「赤城門徒」の有力な信者であった事は疑い無いと思う。そして、了需と関係のある、赤城寺を「赤城の宿の平」から、この地に移したのは北爪一門であろう。とすれば、南北朝の頃より、この地で活躍していたであろうし、多くの一門がいても不思議では無い。
北爪右馬助の活躍した時代は将監の父親の時代である。恐らく、将監の叔父さん??の可能性も??
後北条の滅亡後、それに組した在地の土豪達は帰農して行ったが、野望を持った強者共は他に働き口を求めた…。右馬助もしかりであった。
彼は「南部藩」に仕官した。恐らく、その戦功を認められての事だろう。晩年(1606〜1015頃)、主君「南部利直」より尋ねられた事に応じて、過去の戦績を27条に亘り書き記した文書が残っている。
「一 越国より新田へ御はたらきの時、田島においてくび一つ取り申し候、此の請人、本田豊後殿におり申し候長瀬伊賀、牧野殿にこれあるあくさわ治部、此の両人存じ候事」(越後の上杉軍が新田金山城へ攻めし折り、太田の田島で敵の首一つを取ったとの事、この事は、本田様に仕えて居る、長瀬さんや牧野様に仕えている阿久沢さんが証人であるとの意味なり)
凄い剛の者がいたんですね!!この証人になっている「あくさわ治部」も或は南麓で活躍していた、市之関か、柏倉か、大前田か、苗ケ島の阿久沢一門の出かも??知れませんね!!多分そうでしょう…。
2006年07月12日
●赤城山の花々
2006年07月07日
●ブルーベリー収穫体験*クローネンベルク
赤城高原牧場クローネンベルクでは、ブルーベリーの収穫体験が行われています。
※その日ごとの収量に限りがありますので、お出かけの際は事前にお問い合わせください。
【問い合わせ先】
赤城高原牧場クローネンベルク
TEL:027-283-8451 FAX:027-283-8452
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