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2006年07月13日

●よもやま話「39もの首を取った強者」

 戦国の世に39の首を取った男が、この南麓から輩出していた。
 その名を「北爪右馬助」と言う。戦国時代の永禄6年(1563年)、北爪助八は軍功により、館林の長尾景長より狸塚・篠塚・石打等の所領を拝領している。その助八の子が北爪将監である。将監の他の兄弟もそれぞれ、北条氏邦の配下として活躍している。
 当時、複数の「北爪」を名乗る者共がいた事が記録に残っている。北爪出羽守長秀や新八郎等6〜7人の名が出てくる。彼等は「女淵地衆」と言う集団を組んで活躍していた(北爪宗家に当時の中世文書あり)。現在も鼻ヶ石・大前田・苗ヶ島・室沢等々に北爪を名乗る一族が多く住んでいる。
 鼻ヶ石町の赤城寺が北爪一門の氏寺であるとの伝承を信ずるとすれば、了需の興した「赤城門徒」の有力な信者であった事は疑い無いと思う。そして、了需と関係のある、赤城寺を「赤城の宿の平」から、この地に移したのは北爪一門であろう。とすれば、南北朝の頃より、この地で活躍していたであろうし、多くの一門がいても不思議では無い。
 北爪右馬助の活躍した時代は将監の父親の時代である。恐らく、将監の叔父さん??の可能性も??
 後北条の滅亡後、それに組した在地の土豪達は帰農して行ったが、野望を持った強者共は他に働き口を求めた…。右馬助もしかりであった。
 彼は「南部藩」に仕官した。恐らく、その戦功を認められての事だろう。晩年(1606〜1015頃)、主君「南部利直」より尋ねられた事に応じて、過去の戦績を27条に亘り書き記した文書が残っている。
 「一 越国より新田へ御はたらきの時、田島においてくび一つ取り申し候、此の請人、本田豊後殿におり申し候長瀬伊賀、牧野殿にこれあるあくさわ治部、此の両人存じ候事」(越後の上杉軍が新田金山城へ攻めし折り、太田の田島で敵の首一つを取ったとの事、この事は、本田様に仕えて居る、長瀬さんや牧野様に仕えている阿久沢さんが証人であるとの意味なり)
 凄い剛の者がいたんですね!!この証人になっている「あくさわ治部」も或は南麓で活躍していた、市之関か、柏倉か、大前田か、苗ケ島の阿久沢一門の出かも??知れませんね!!多分そうでしょう…。

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