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2006年02月28日

●赤城山の花々

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フキノトウに引き続きマンサクの花が咲き出しました。やっぱり春ですね。
場所ですか?忠治温泉から赤城温泉に向かい、関東平野が一望に見渡せる場所から少し上った所です。前方には荒山がそびえ立っています。
これから、どんどん黄色い可憐な花を付けて行く事でしょう。

[情報提供:御宿総本家館主]

●よもやま話「桃の節句」

 今では3月3日がお節句ですが、昔は、4月3日だったんですよ!!宮城地区の辺りでは。
 もう誰も知りませんよね。いつ頃変わったのでしょう?
 今を去る60年位前頃、戦後の事です。お節句には、前日の4月2日に草餅をつき、菱形に切って三枚重ねにして、ひな壇に飾っていました。昔のお嫁さんは、滅多に実家に帰れなかったのですが、娘のいる家は、「良いべべ」着せて、実家に泊まり掛けで行けたんです。
 ひな人形は、お節句が過ぎてから、天気の良い日を見計らい片付けますが、余り遅くまで飾って置くと、娘の嫁行きが遅くなると言われていました。

2006年02月27日

●ぐんまフラワーパーク*花桃まつり

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[平成18年2月27日撮影 イベント温室]

ぐんまフラワーパークでは、「花桃まつり」が開催されています。
 期日:3月5日(日)まで

■春のお茶席  3月5日(日)
  一席:300円(春の和菓子と抹茶)
  時間:10:00〜15:00
  場所:イベント温室休憩所 先着100名様

問いあわせ先
 ぐんまフラワーパーク
 電話 027−283−8189
 URL http://www.flower-park.jp
 ぐんまフラワーパークへの案内マップ

●赤城山の春を見つけた!

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 やっと赤城山中に春の息吹が感じられるかの様に、赤城温泉御宿総本家裏庭の池端に「フキノトウ」が、一週間前頃から顔を出しています。
 標高860mの地点にも春が近づいている証拠ですかね!!
 極寒?の地に住んでいると、特に春が待ち遠しいです。

(情報提供:御宿総本家館主)

2006年02月25日

●よもやま話「紅葉錦赤城物語」

 「紅葉錦赤城物語」。これは、二世十返舎一九こと糸井鳳助(勢多郡花輪出身)が、天保12年に室沢の里で筆を採ったものです。
 この本の事を知ったのは今から10数年前、高崎芸術短期大学で電子オルガンコースを担当している松本玲子先生との出会いからでした。当時、どなたかの紹介で先生とお会いしたと記憶しております。
 先生は、各地の美術館や博物館で展示されてる内容にリンクした形での、コンサートをなされているとの、お話を当時お聞きした覚えがあります。その時は、この物語を題材にしたいので取材協力・地元案内をして欲しいとの要請があり、鳳助が滞在していた河原家を先生と訪ねたり、同家の墓地を調査した記憶が、この記事を書くに当たり鮮明に蘇えりました。
 河原家は室沢の名家で、江戸時代から赤城南麓の山中で薪・炭事業を前橋藩の認可の元に手広く行っておりました(苗ケ島・東宮家も関係)。そして、江戸下谷にも、材木・薪・炭を扱う店を持っていました。室沢の領主稲葉家(京都淀藩)に大名貸しをしておりましたが、ある日、一献差し上げたいとの江戸藩邸からの招きに応じて、酒席で毒を盛られ殺され、貸し金をチャラにされたとの逸話が残されております。
 鳳助は「仙石家騒動」と言う本で幕府に睨まれた為に江戸から逃れ、河原家に世話になったと・・・。この室沢滞在中に書かれたのが、湯の沢温泉(赤城温泉)や南麓に伝わる伝説を題材とした「紅葉錦赤城物語」です。この本は、現在群馬県立図書館に所蔵されております。
 松本先生からは、当時、この本のコピーを頂戴した憶えが・・・。これを元にした演奏会は好評だったとの報告を、後日頂戴しました。
 この本の内容ですか?ヘビが、のたくった様な字で皆目見当が・・・。浅学な私では・・・ご容赦の程。そうそう添付の絵は「五渡亭国貞画」とありました。

【赤城温泉郷】
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2006年02月24日

●よもやま話「花見遊山」

 春が近づいてきていますのでお花見の話を。
 江戸時代から庶民のお花見が盛んに成って来ました。勿論、それ以前からありましたが、庶民はそれどころでは無かったと思います。
 「天平の昔から公家達が花を愛で、和歌を…」、「太閤秀吉が吉野山で観桜の催しを…」、どれも天下人の成された事。しかし、何時の世も、春夏秋冬の万物を愛でる心は、お上から下々まで等しく持ち合わせていた筈。
 私達の先祖は、現在よりもかなり貧しかったが、その折々に工夫して、お金を掛けず楽しく物見遊山をしていたことが伝えられています。現代でも、お金を掛けたから楽しい遊山・・・とはいきません。知恵を出して楽しむ方が・・・今も昔も同じ事。
 この近在の桜の名所は、やはり「お角桜」でした。桐生の土屋半渓と渡辺崋山の甥・岩本一遷が今から145年前の安政7年にお花見に来ております。この時の紀行文が絵巻物「阿角之遊興」で残されています。彼らは、お角さんに会うつもりで出掛けたが、彼女は「お伊勢参り」の旅に出ていて不在だったらしい。その折りの歌が残されています。
  「むかしかくめでたき花の種うえて
   千代へしけふもながめあかしつ
   たづねこし花のさかりのかひありて
   かくとは人の思はざらまし」
 苗ケ島の嶋屋平右衛門も家族を伴って、お花見に出掛けた手記が残っております。いやいや、実は妻の実家が近所なんです。彼女の叔父さんは金剛寺の中興の祖と言われた「智海和尚」で、現在の金剛寺を再建した人でした。

2006年02月23日

●よもやま話「桜の大木の話」

 今でも、「どこの桜が一番か?二番か・・・」との話題が、特に春になると上がってきます。もうそろそろ3月、いよいよ桜の開花の予想話の季節です。
 今から90年前頃(大正6年)の話です。
 第1位 北足立郡石戸村東光寺境内「蒲の桜」胴廻り3尺4〜5寸、高さ4丈、枝広さ10間。
(現、埼玉県北本市、東光寺「石戸の蒲桜」樹齢約800年、山桜と江戸彼岸の自然雑種)
 第2位 甲州北巨摩郡山高村実相寺境内「神代桜」胴廻り3丈余、高さ3丈3尺、大枝廻り1丈4尺。
(現、山梨県北巨摩郡武川村「山高神代桜」樹齢1800年以上、日本武尊手植え伝説あり、又、日蓮上人伝説も。国の天然記念物に指定されているが、現在、枝の半分は朽ち落ちている状態なり。往時は高さ30m、枝張り30mと伝えられている。)
 第3位 上州勢多郡新里村新川新井松之助の庭「お角桜」胴廻り3丈、高さ5尺。
(現、桐生市新里町新川地区、現在の桜は二代目なり、先代は昭和23年に枯れ、植え直された。先代の桜は鎌倉時代の建久2年、新井家当主により植えられ、娘「お角」の名を付けたとの伝説あり。しだれ桜なり。現在の桜は根廻り4m、枝高約10m。)
 そして、苗ケ島町の金剛寺のしだれ桜は「お角桜」の子なりと。 

【苗ヶ島町 金剛寺のしだれ桜】
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金剛寺案内マップ

2006年02月22日

●よもやま話「安産祈願」

 秋篠宮様の第三子に期待が高まっていますが、妊娠しているお嫁さんが階段を上がる時、左足から上がると「女の子」が生まれる! 何んて言い伝えが「馬場町」にあったそうです。
 前橋の産泰神社はお産の神様、安産祈願には「底抜け柄杓」を上げたとか。柄杓の底がポンット抜けるようにと願って、産科のお医者さんが居ない時代には大層流行ったそうです。
 苗ケ島町の嶋屋さんという家にも「黄金の安産仏」があったとか?
 これを借りて枕元に置くと安産であったと・・・。お礼に、この仏様の上に和紙を貼ったという話です。だから誰も本体を見たことがなかった。勿論、家人も正体を知らない!
 ただ「黄金」であるとの伝聞だけが誇張して流布されていましたが、ある日、ドロボーが・・・!
 以後、誰もその正体を知らぬまま時が過ぎ、噂に上る事は無くなりました。きっとドロボーも奥さんの安産を願ったのでは・・・。そして返還されなかったのは流産・・・・?もしそうだったとすれば、悪行が祟ったのでは!

2006年02月20日

●よもやま話「名字と名前」

 先日、親戚で孫ができ、洋之介と命名したとの電話がありました。それから数日後、知人の所でも孫ができ、洋介と・・・。聞いたら、最近「介」の字がはやっているとの事であります。
 江戸時代はどうだったのでしょう。名字は勝手には名乗れませんでした。「名字帯刀」を許された者以外はです。然らば、集落の人間を、どう識別したのでしょうか?
 五人組帳(江戸時代の戸籍台帳で名主が毎年更新し役所と手元へ残します)これを紐解いて見ると良く分かります。
 苗ヶ島町を例にとりますと、宝暦11年(1761年)の戸数は160軒と寺2ケ所で人数は619人でありました。実は、160軒の戸主の名前が全て違って居るのであります。つまり160通りの名があると言う事です。
 代々引き継がれた名を使っている平右衛門は、代々、平右衛門と言う風に。但し、家の格によっては、平右衛門吉勝と言うふうに個別の名を個人的に付けている場合があります。また、婿の場合、戸主の名を引き継ぐ家と引き継がない家があります。それから、戸主が隠居した場合、息子が戸主の名を引き継ぎ、隠居した親父は別の名を名乗ることもあります。平右衛門家では代々「六右衛門」と、これはこの家の先祖の名であります。但し、名字が無かったかと言うと、調べてみますと160軒全てに名字が実在しています。実は名乗れないだけで、墓石にはきちんと、名字と名前が刻まれています。
 苗ケ島町の金剛寺を飾る関口文治郎作の欄間が退色したので、着色すべく寄付を募りました。幕末の「彩色奉加帳」には寄付者名の名字と名が書かれております。
 明治2年11月(1869年)新政府は、「御復古御一新ニ付改名」せよとのおふれを出します。「OO左衛門」「OO右衛門」「O兵衛」 「O之助」「O之蒸」「O之進」「O太夫」「OO介」「OO輔」とかの旧来使用されていた名前は禁止されました。苗ヶ島町では明治3年11月に全ての戸主の名前が変えられ、名字名前が書かれた一覧表(旧称付記)が名主により佐野民事役所(苗ケ島町は栃木県・佐野藩領)に提出されています。

【改名帳 (井上良男氏所蔵)】
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2006年02月18日

●よもやま話「斉藤玉男」

 皆さんは斉藤玉男先生をご存じでしょうか。
 多分、若い世代の方はご存じないかもしれませんね。でも先生が作詞した前橋市立宮城小学校の校歌は今でも現役です。「七つの字から集まって・・・」で始まる詩です。
 先生は父・文吉(医師)、母・佳比の子として明治13年苗ヶ島村(現在の苗ヶ島町)で生まれました。しかし、明治23年に父が、また明治26年には祖父の斉藤多須久(医師・国学者)を亡くしてしまいます。
 明治32年旧制前橋中を卒業し旧制二高を経て、明治39年東京帝国大学を卒業し、東京府巣鴨病院医員となります。大正5年には日本医専(日本医科大)の教授に就任し、昭和19年まで勤めます。
 大正12年に東京市品川区に居宅と病院を建てます。この神経科のゼームス坂病院は、詩集「智恵子抄」で有名な高村光太郎の妻、智恵子の終焉の地として有名になります。
 智恵子は昭和10年2月に入院し、昭和12年(52歳)頃から病室で紙絵(ちぎり絵)制作を始めます。そして、昭和13年10月5日、53歳でこの世を去りました。しかし、このゼームス坂病院内で制作された智恵子のちぎり絵は、今日まで多くの人々に感銘を与え続けているのです。そして、それは斉藤玉男先生が主治医であったからこそと伝えられています。
 今回はこの病院を建てるにあたり、郷里苗ヶ島の財産処分のメモが残っておりましたのでご紹介しましょう。

○ 斉藤玉男氏の買い受け土地、南品川に宅地298坪、代金23800余円、1坪80円。居宅37坪、病院195坪との事。
○ 斉藤玉男氏郷里に所有田地は2町3反余、この地価、平均1反40円、農工銀行より右反別に対し借入金5500円、石橋喜多次氏所有と合せ12000円を今回借入との事。大正11年11月30日登記。衛生工事に3〜4000 円は要するとの事。
○ 東宮六郎治、石橋喜多次氏より2267円相当の土地を買い受ける。

 斉藤玉男先生は昭和47年に亡くなりました。先生の生家跡は現在阿久沢さん宅になっていますが、だいぶ前に取り壊された「離れ屋」(6畳2部屋)は、玉男先生の祖父、多須久翁がその師と仰ぐ権田直助先生を招く為に、慶応2年に建てられたそうです。
 明治38年頃、その離れ屋は苗ヶ島の最初の駐在所として使用され、最初に駐在したのは北海道札幌南二条、平民官史、堀要吉と言う警察官でした。


前橋市立宮城小学校
http://www.miyagi-es.menet.ed.jp/

高村智恵子記念館
http://www.city.nihonmatsu.fukushima.jp/kanko/chieko/top.html

ゼームス坂
TOKYO1.TV

2006年02月17日

●早春のフラワーアレンジメント教室

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 平成18年2月17日(金)、宮城花いっぱい・元気いっぱい推進協議会主催の「フラワーアレンジメント教室」が宮城公民館で開催されました。
 今回は約45名のみなさんが、桃の節句にあわせて桃の花と菜の花を使い、パラレル(平行)という手法のフラワーアレンジに挑戦しました。

お問い合わせ先
宮城花いっぱい・元気いっぱい協議会事務局
(前橋市宮城支所地域振興課内)
電話 027-283-2131(代)

2006年02月15日

●よもやま話「宮沢所得と斉藤多須久」

赤城温泉、「御宿 総本家」の裏山には、「暗きより出る名月の流れ哉」と彫られた句碑があります。作者は宮沢得所と言い沼田在住の神官でした。
  赤城温泉(旧称・湯の沢)は、赤城南麓から山越えして沼田に出る近道の途中に位置していたので、多くの旅人がこの温泉で旅の疲れを癒したとの話が伝わっています。
  宮沢得所先生は三夜沢の神官、真隅田家とも姻戚関係にありました。勿論、湯宿の主人、嶋屋平右衛門(御宿総本家先祖)との交流も浅からぬものがあったと伝えられています。
  さて、今回は、宮沢得所先生と斉藤多須久の関係を少々記したいと思います。

  1802年(享和2年)宮沢得所 利根郡沼田町八坂神社に生まれる。
  1809年(文化6年)権田直助 埼玉県入間郡毛呂山町に生まれる。
  1819年(文政2年)井上正香 前橋市西大室町に生まれる。
  1835年(天保6年)斉藤多須久 前橋市苗ヶ島町に生まれる。
  1843年(天保14年)宮沢得所句碑湯の沢温泉に造られる。

  斉藤多須久、赤城神社神官真隅田氏の紹介により、同氏の親戚である宮沢得所先生の門に入る。後に宮沢得所先生の媒酌で利根郡生品村(現川場村)戸部五兵衛の娘、常磐を娶る。
  1856年(安政3年)井上正香(38歳)、権田直助(48歳)先生の門人になる。
  1862年(文久2年)斉藤多須久(27歳)京都に上がり、官医錦小路家に入り医学を学ぶ。  

生麦事件、坂下門の変、寺田屋事件起きる。激動の時代をその震源地京都にて体感し、倒幕の志士と交わる。京都が戦乱の巷となった為帰国後、井上正香先生の紹介により権田直助先生の門に入る。  

  1866年(慶応2年)斉藤多須久、自宅の離れ屋6畳2部屋を新築し権田直助先生を迎える(直助58歳)。八代駒雄や平山義三の計7名同行。
  1867年(慶応3年)王政復古の年、権田直助先生古医道の事を井上頼国や井上正香、斉藤多須久に託し上洛、西郷隆盛等と国事に奔走す。
  1869年(明治2年)三夜沢赤城神社。斉藤多須久、小池文七郎等の尽力により復古神道の教えに則り再建される。
  権田直助先生、白川神祇伯家の学館を預かり皇学を教授、大学校が新設されると皇朝医道の教授となる。
  1870年(明治3年)赤城神社境内に神代文字の碑が平田鉄胤撰文、延胤神字、権田直助書により建てられる。

[宮沢所得の句碑]
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赤城温泉 御宿 総本家案内マップ

[三夜沢赤城神社 神代文字の碑]
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三夜沢赤城神社案内マップ

●春だより*宮城の花桃

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今年は例年になく寒い冬となっていますが、宮城地区の花桃生産農家では、今、花桃の出荷に追われています。
春の足音が聞こえています。

問い合わせ先
 前橋市農業協同組合 宮城支所
 電話 027-283-2501


花桃関連情報

ぐんまフラワーパークで、「花桃まつり」が開催されます。
 期日:2月25日(土)〜3月5日(日)

■花桃まつり大抽選会  2月26日(日)
  時間:13:30〜
  場所:フラワーホール 先着500名様
■春のお茶席  3月5日(日)
  一席:300円(春の和菓子と抹茶)
  時間:10:00〜15:00
  場所:イベント温室休憩所 先着100名様

問いあわせ先
 ぐんまフラワーパーク
 電話 027−283−8189
 URL http://www.flower-park.jp
 ぐんまフラワーパークへの案内マップ

2006年02月14日

●よもやま話「上毛の五色山」

 明治43年の東宮六郎治メモに、「上毛五色山」というのが載っておりましたのでご紹介しましょう。

 1 城山  勢多郡
 2 雲山  北甘楽郡(妙義山)
 3 瀧山  北甘楽郡磐戸村(南牧村)
 4 山   新田郡太田
 5 名山  群馬郡

 こう記してありましたが、何故、榛名山?
 榛色と言うのがあるの??・・・と直ぐに調べてみたらありました!
 「はしばみいろ」、榛の実の色ということです。別名ヘイゼルとも言うと書かれていました。

草花の色

[朝日があたる赤城山]
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2006年02月13日

●よもやま話「関口文治郎の欄間と赤城神社」

 榛名神社、妙義神社の豪華絢爛たる彫刻、そして苗ヶ島町金剛寺の欄間を手がけた関口文治郎の彫刻で有名な桐生・天満宮。
 当時の名工とうたわれた石原常八(花輪出身)が手がけた板倉の雷電神社、それから大室の産泰神社等々、枚挙に暇がない程の神社仏閣の彫刻が江戸期には盛んに彫られています。花輪、黒保根からは多くの彫り物師が江戸城を始め、関東各地で活躍して、その名を天下に知らしめていました。
 しかし、三夜沢の赤城神社はどうであろうか?彫刻は全く無く、質素と言っても過言でない造りであります。何故?
 それは明治政府による国家神道と廃仏棄釈の宗教政策によるもので、神社は平安時代か鎌倉時代の復古的様式で建て替えられて行くようになったからであります。西洋列強の植民地主義に対抗して富国強兵の統一国家建設を早急に建設する必要に迫られた明治政府は、菊の御紋章をその中心飾りとしていく方針を採って行くのであります。
 復古神道の教えを忠実に守って赤城神社再建に尽くしたのが、斉藤多須久等であります。本殿が伊勢神宮を模している理由でもあります。
 明治期の建造物としては県下で最も早く県指定に成ったのはそのような理由かもしれません。
 廃仏毀釈の影響は神社仏閣をお得意先とした彫刻師集団にも多大な影響を与え、以後その活動は衰退していくのであります。

[苗ヶ島町の金剛寺の欄間]
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[金剛寺の欄間の内、左から「楊香(ようきょう)」、「老采子(ろうさいし)」、「唐夫人(とうのぶじん)」
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金剛寺案内マップ


[三夜沢赤城神社]
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赤城神社案内マップ

2006年02月11日

●よもやま話「赤城の小天狗と呼ばれた男」

 今から数年前、粕川・中之沢の別荘地でウッドデッキを制作している人と知り会いになりました。彼が使用していた古材の板の素晴らしさは、筆舌しがたい程でありました。何処で手に入れたか尋ねたところ「赤堀」との事。もうそれ以外考えられない…。彼は産廃の仕事をしているとの事で、その関係で入手したと。その他、もっと古材があると言うので彼の自宅迄行き見せてもらいました。
 その板は「練武館」と呼ばれた馬庭念流・本間道場で使われていた板材でありました。その他、音響効果を高めるため道場の下に埋め込まれた「かめ」等も彼が所有しておりました。それ以外に「門」の構造材等も…。
 本間念流とも言われたこの道場を開いた開祖は、本間仙五郎と言います。
 仙五郎は、1744年(延享元年)生まれであります。彼が13歳の時(1756年)父,権八郎を亡くし、極貧の中、度重なる不幸にもめげず家運再興のため一心不乱に働くと共に、剣術を学びます。それは無き父も自然流剣術の遣い手であったからであろうと思われます。そして、荒砥村で道場を開いていた荒木流の大山志磨之助道場に入門します。
 22歳の頃、赤城の滝沢不動に籠もり、血の出る様な修行を重ね、そして、大山先生から「赤城の小天狗」と称され免許を授けられるのです。その後、木暮村(現富士見村)の豪農須田氏を介し、馬庭念流の14世樋口先生の知遇を得て、馬庭念流に入門し、毎日、徒歩で往復し鍛錬に励みます。そして蓄財にも励み、上州で一、二と言われる名門の礎を作るのです。
 文化10年(1813年)、馬庭念流の永代免許を授けられます。それから2年後、仙五郎は72歳で不帰の客となります。
 仙五郎の跡は長男の仙五郎応吉(天明4年生まれ、明治7年90歳没)が継ぎます。この時、江戸の千葉周作と馬庭道場による一発触発の「伊香保神社奉納額」事件が起き、仙五郎の名を天下に知らしめました(司馬遼太郎の小説「北斗の人」を参照して下さい)。
 応吉の跡は応次が継ぎます。仙五郎応次には4男1女があり、長男は若くして死に、次男千代吉は貴族院議員になり、三男三郎は剣道範士、そして衆議院議員に。応次は晩年、甥の田口永八郎を養子として本間家を継がせます。筆者の曾…祖父、宮城村の初代村長、東宮六郎治の祖父、父と六郎治の三代に亘り、本間の門人でありました。安政4年(1857年)、湯の沢薬師尊、滝沢不動尊へ剣術奉納式を苗ヶ島・金剛寺に於て行います。その時、六郎治7歳にして、父の相手をして木刀の型を披露します。当日、最も人目を引いたのは、田口永八郎先生の居合曲抜きと六郎治の横室(富士見)の祖父(大友氏)の大刀抜きであったそうです。
 薬師尊、不動尊には5〜6尺位の額を奉納します。この時、各地から集まりたる兵法者の宿は、二階を含め全ての部屋を使い、当家一軒でまかないたりと、本間先生方は離れ座敷に宿泊せり。文久3年(1863年)、本間氏妙義神社へ剣術奉納、六郎治13歳にして同社前に於いて荒木流の居合を披露。明治2年、本間氏に剣術寒稽古教授を受けます。
 後年、六郎治の息子、東宮鉄男も良く剣を学び、武人として戦場に散ります。「東前」と言う我が家の分家から仙五郎の甥(剣士)に嫁いだ娘あり。また、馬庭・樋口道場主の友で有った木暮の須田又八も親戚なり。

[滝沢不動尊]
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交流村マップ

●冬の不動大滝

自然がつくりだす氷の芸術、冬の不動大滝の様子です。
2月11日の不動大滝は、暖かい日がここ数日続いたためか、氷柱が溶けてしまったようです。

[平成18年2月11日(土) 14:12 撮影]
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[平成18年1月22日(日) 9:30 撮影]
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[平成18年1月6日(金) 14:35 撮影]
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交通規制のご案内
宿の平駐車場(忠治温泉隣)からの関東ふれあいの道は、林道工事中のため落石のおそれがあり、2月28日まで通行止めとなっています。
不動大滝マップ(PDF)
交流村マップ
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【問い合わせ先】
前橋市観光協会宮城支部 電話027-283-2131

2006年02月10日

●よもやま話「芸能の町柏倉」

 旧宮城村は7つの大字で構成されていましたが、明治22年迄は遠い昔から勢多郡OO村と称し、天領であったり、旗本領であったりと、その支配者もそれぞれでありました。そんな関係でか、7地区には微妙に違う何かが、今日まで流れています。その中で、芸能に関しては、特に柏倉地区(現、柏倉町)が他より秀でている様に感じられます。
 柏倉の芸能と言えば「弥生組」と、八木節の集団の名が即座に出るように現在迄も脈々とその血脈が受け継がれています。ここは江戸時代から地芝居が盛んで、現在も「柏倉歌舞伎舞台」が市の文化財として現存しております。
 柏倉地区はかって西と東に分かれていて、各々に舞台があり、西には同じ神社境内に2ケ所ありました。芝居等が盛んになると「狂言致し候者は平生遊興を好み手足の荒れ候を嫌い、衣服の悪しきを嫌い・・・農工商売の生業に自然と怠り・・・」の理由で江戸幕府は度々禁令を出します。それは明治政府も同じでしたが、禁令が出れば、隠れ芝居が横行すると言う具合で、民衆の欲望を抑える事は出来ないもの、現今も同じだと思います。
 そしてもう一つは、「柏倉・箱田の豆人形」と呼ばれて、明治時代の中頃迄盛んに上演されていた人形芝居です。その起源は、「昔賭博が流行り、若者がこれに熱中せし為、これを止めさせるべく、豆人形を習わせたと・・・。」昭和30年頃迄は、いくらか覚えて演じる古老(六本木・北爪さん)がおりましたが今は無しです。

【柏倉歌舞伎舞台】
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【柏倉・箱田の豆人形】
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2006年02月06日

●よもやま話「千人塚の黄金伝説他」

 三夜沢から赤城温泉方面に向かい荒砥川を越した辺り一帯を東沢(地元ではヒガシッツァワ)と言います。神社の東を流れる川の意でありましょう。
 この辺りは岩山ばかりで、今から2万5千年位前、赤城山の噴火で流下した溶岩(荒山溶岩流・安山岩)が凝固した物であります。この石は、「赤城小松」と称され珍重されているとの事であります。
 さて、橋を越し直線の道を登っていくと、左に千石石材の採石場が有り、さらに登ると大野工業(旧田源石灰・旧東鉄工業)の採石場があります。その入り口前方に、小高い尖った岩山がありました。今は削り取られて跡形もありません。そこを、「千人塚」と土地の古老は呼んでいました。何時の時代か定かではありませんが、大昔、この辺りで合戦があり、その戦死者千人を埋葬したのでその名が付いたと・・・史実?伝説であります。そして、その山には黄金が隠されていると!
 戦後の貧しい時代、何人かの人が宝探しに挑戦。しかし、歯が立たない程の硬い岩山、皆断念したらしいです。その当時、赤城山のそこかしこで宝探しが流行りました。
 粕川の上流、銚子の伽藍や小沼周辺で、ある人は自分で堀った穴に落ちて亡くなったという話もあります。
 今から10年位前、時の村長、松山雷司さんが、湯の沢の近くに「屏風岩」って言う所は無いかいと尋ねられました。何んでですかと尋ねたら、ある人が村長室に来て、「そこにお宝が隠されている」と真剣に言っているので!との事です。村長もかなりその話に乗り気?でした。
 「屏風岩」と称する所は、そそり立つ岩山を屏風に見立てております。いろいろ調べたら、金剛寺の志田和尚が持っていた「国立図書館」所蔵、徳川幕府制作、街道絵図の復刻版の中に、苗ヶ島、三夜沢、宿の平、朝日の滝、湯の沢、屏風岩等々記載されていました。そこは獅子ケ鼻と称された、湯の沢街道随一の難所の対岸でした。
 そんな所に「お宝」何んかありませんよね!!

【千人塚】
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2006年02月04日

●よもやま話「赤城の埋蔵金異聞」

 幕府の勘定奉行だった小栗上野介忠順が倉渕の烏川原で斬首されたのが明治1年6月の事でした。それから既に138年余の歳月が流れております。
 既に、明治、大正時代から小栗の埋蔵金伝説は流布されていたらしく、多くの人々がその隠された黄金何万両かの行方を追って悲喜交々の物語を展開してきたようです。
 さて、埋蔵金は本当にあるのでしょうか?無いと言ってしまえば・・・ロマンの欠けらも無い話ですが・・・。
 小栗が倉渕に隠退したのは、その年の1月の事、その5ヶ月後には斬首されてしまいました。処刑後、もし埋蔵金を隠匿したなら、明治政府は赤城山一帯を探索したはずですが、それは痕跡無しであります。
 さて、異聞の事でありますが、筆者の祖父が子供の頃の私に語ってくれた話を・・・。祖父の叔母さんが嫁いでいた倉賀野の某家の話です。
 戦前、倉が15棟位あって、その倉を取り壊したらその倉の下から慶長小判がたくさん出てきたとか。それは、小栗の一行がそこの家に泊まり、翌日、早朝多くの荷駄を連ねて赤城の方面に消えて言ったという話。多分そこの家に埋蔵金を隠し,空荷で赤城に向かったのだと・・・。
 祖父存命中、私をそこの家に連れて行ってくれると話していましたが叶いませんでした。江戸を引き払った小栗の荷物は、利根川を利用して船で倉賀野に運ばれたのは事実であります。
 続きの話もありますが、またの機会に!

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2006年02月01日

●よもやま話「御殿山」

忠治温泉の前にそびえるように立つ山を「御殿山」と言います。
往古、桃井播磨守(もものい はりまのかみ)の御殿が有ったのでその名が付いたと、そして、御殿内で酒作りをし、その粕を下の川に流したので、その川を粕川と言うとの伝承が今に残っています。
また、忠治館の敷地は鎌倉時代から江戸時代初期まで鼻毛石町「赤城寺」の旧跡地であり、敷地内には市の指定文化財「赤城塔」が苔むして往時を偲ばせています。
その忠治館の隣の駐車場になっている平坦地を「宿の平」と呼んでいますが、往古、宿場が有ったと伝えられています。
ここは赤城越えの要衝であり、 御殿山が中世の城郭の跡で有ったことは「故、山崎一先生」の調査で判明しています。

【宿の平駐車場】
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【忠治館の敷地内にある赤城塔(市指定文化財)】
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忠治館案内マップ