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2006年02月18日

●よもやま話「斉藤玉男」

 皆さんは斉藤玉男先生をご存じでしょうか。
 多分、若い世代の方はご存じないかもしれませんね。でも先生が作詞した前橋市立宮城小学校の校歌は今でも現役です。「七つの字から集まって・・・」で始まる詩です。
 先生は父・文吉(医師)、母・佳比の子として明治13年苗ヶ島村(現在の苗ヶ島町)で生まれました。しかし、明治23年に父が、また明治26年には祖父の斉藤多須久(医師・国学者)を亡くしてしまいます。
 明治32年旧制前橋中を卒業し旧制二高を経て、明治39年東京帝国大学を卒業し、東京府巣鴨病院医員となります。大正5年には日本医専(日本医科大)の教授に就任し、昭和19年まで勤めます。
 大正12年に東京市品川区に居宅と病院を建てます。この神経科のゼームス坂病院は、詩集「智恵子抄」で有名な高村光太郎の妻、智恵子の終焉の地として有名になります。
 智恵子は昭和10年2月に入院し、昭和12年(52歳)頃から病室で紙絵(ちぎり絵)制作を始めます。そして、昭和13年10月5日、53歳でこの世を去りました。しかし、このゼームス坂病院内で制作された智恵子のちぎり絵は、今日まで多くの人々に感銘を与え続けているのです。そして、それは斉藤玉男先生が主治医であったからこそと伝えられています。
 今回はこの病院を建てるにあたり、郷里苗ヶ島の財産処分のメモが残っておりましたのでご紹介しましょう。

○ 斉藤玉男氏の買い受け土地、南品川に宅地298坪、代金23800余円、1坪80円。居宅37坪、病院195坪との事。
○ 斉藤玉男氏郷里に所有田地は2町3反余、この地価、平均1反40円、農工銀行より右反別に対し借入金5500円、石橋喜多次氏所有と合せ12000円を今回借入との事。大正11年11月30日登記。衛生工事に3〜4000 円は要するとの事。
○ 東宮六郎治、石橋喜多次氏より2267円相当の土地を買い受ける。

 斉藤玉男先生は昭和47年に亡くなりました。先生の生家跡は現在阿久沢さん宅になっていますが、だいぶ前に取り壊された「離れ屋」(6畳2部屋)は、玉男先生の祖父、多須久翁がその師と仰ぐ権田直助先生を招く為に、慶応2年に建てられたそうです。
 明治38年頃、その離れ屋は苗ヶ島の最初の駐在所として使用され、最初に駐在したのは北海道札幌南二条、平民官史、堀要吉と言う警察官でした。


前橋市立宮城小学校
http://www.miyagi-es.menet.ed.jp/

高村智恵子記念館
http://www.city.nihonmatsu.fukushima.jp/kanko/chieko/top.html

ゼームス坂
TOKYO1.TV

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