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2006年03月31日

●ふれあいの郷*関東の富士見百景

みやぎふれあいの郷は、「関東の富士見百景」に選定されていますが、そのプレートがふれあいの郷駐車場に設置されました。
ここから遠く南の山々の間に、富士山が見えます。
撮影したこの日も見えましたよ。

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ふれあいの郷マップ

2006年03月30日

●よもやま話「千本桜」

 千本桜がなぜ太く生長したのか?「木は生長して太くなる」当たり前の事を言うな!!と怒られそうですが、千本桜並木を歩いて見て下さい。未だ太ももの太さほどの木から、相撲取りの腹程の木まで色々とあります。同じ時期に植えられたんですよ!
 確かに木々の間に植えられたので、生長出来ないって言う部分はありますが、それにしても、違い過ぎないとは思いませんか?
 かつて、今の赤城高原牧場クローネンベルク(ドイツ村)は、前橋刑務所・赤城農場と言われ、多くの受刑者が収監されておりました。そして、千本桜が植えられている道路の両側は刑務所の畑でした。今は崩れて跡形も無くなりましたが、20年位前迄は、農作業をする囚人を監視する為の、望楼があちこちにありました。
 私は作業中の皆さんの傍を通り、山に登ったもんです。倶利伽藍モンモンのお兄さん達が丹精込めて作ろうと撒いた「金肥」は、桜の根に吸い取られ、作物はろくな物が出来なかったとか・・・。しかし、お陰で畑に隣接して植えられた桜は、丸々太ったんです。
 もし、そこを卒業した方が、この「よもやま話」を見ていたら、筆者は、心から貴方達に感謝の言葉を差し上げたいのです。
 何れにしても、警務官の方々や収監されていた方々が、あの桜の生長を見守っていて下さったから「日本の桜の名所百選」にも選ばれる程に成ったんです。

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2006年03月27日

●千本桜の森モニュメント除幕式

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 赤城南面千本桜に隣接して整備が行われている「みやぎ千本桜の森」で、3月27日、桜をイメージしたモニュメント「舞桜」の除幕式が執り行われました。
 このモニュメントは、宮城村商工会45周年記念と平成18年4月の商工会合併に伴う解散を記念して、地元彫刻家の氏家慶二さんに依頼し制作されたもので、千本桜の森の整備にあわせて前橋市に寄贈されたものです。

2006年03月26日

●嶺公園のミズバショウ

 林の中の湿地に自生する嶺公園のミズバショウの様子です。
3月26日(日)見頃となっており、たくさんの方が訪れていました。
見ごろは3月いっぱいだそうです。

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【平成18年3月26日撮影】

●みやぎ桜守の会*桜の苗木移植作業

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平成18年3月26日(日)、みやぎ桜守の会による桜の苗木移植作業が、千本桜に隣接する「千本桜の森」で行われました。

2006年03月25日

●よもやま話「市之関の人々が愛した和算」

 市之関町の住吉神社に和算の奉納額が飾られています。旧宮城村の7大字の中で、この地区の人は努力家が多い。柏倉町と同じく、良田が少ないのが影響しているせいかも知れません(江戸時代は米経済・米の収穫があるか無いかで収入が決まりました)。
 人は、豊かな土地に住む者より、環境の悪い所に住む人の方が、いかにそれを打破しようかと努力します。勤倹貯蓄に励む者が多くなります。結果、他の地区より抜きん出た資産家や篤農家が出ております。
 そうそう、和算(数学)ですね、当時は、庶民の娯楽だったそうです。クイズの様な謎解きです。何か面白い事、難しい問題を解いたりすると自慢したくなります。現在も同じだと思いませんか?それで自慢して額にした!!そんな事が奉納額の始まりだったらしいんです。ここの算額の詳しい話は機会がありましたら後日と言う事に・・・。

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【市之関町 住吉神社】

2006年03月24日

●よもやま話「仙石騒動」

 前に書いた(2006年02月25日掲載)「紅葉錦赤城物語」の所で、二世十返舎一九(糸井鳳助)が江戸をた追われた理由・・・「仙石騒動」を題材・・・それって何?との質問にコ・タ・エ・まして!
 この事件は三夜沢の奈良原年代記の天保7年の項に記されてあります。
 「同年二月仙石播州一件裁許重罪左京父子外二名其余十人余也、主家道之助二万八石被召・・・」。この騒動は、幕末に於ける日本の三代「お家騒動」で、発端は仙石家の分家二家の勢力争いで、仙石左京(行政側)派と仙石造酒(財政側)派が藩財政の運営を巡っての対立でした。
 当時、お家騒動は天下の御法度だった為に幕府の重い処置が下された事件です。時代は正に幕末の動乱期に入り天下が俄に騒がしくなって来ております。そうそう、天保6年は「天保通宝」が鋳造された年。
 天保7年は天保の大凶作で各地で農民一揆が起きます。年代記にもその年の項に「・・・同年四月十日頃ヨリ雨フル一月ノ内晴日ナシ、蚕繭大ニ違フ奥州ノミヨシ同月ヨリ五月迄米一両六斗五升ナリ麦総テ大ニヨシ二斛余ナリ、同年五月一日晴日ナシ、同年六月雨大ニフル一日モ晴日ナシ、十五日頃ヨリ江戸始関東国々毛髪フル白色在リ黒茶色等在リ何モ長サ三寸ヨリ一尺余在リ何ノ毛ト言コト知ラズ、米一両ニ五斗ニナル、雨マスマスフル七月ニ入フル六日ヨリ十三日少シヨシ十四ヨリ又フル十七八日大風東ヨリス夫ヨリ又フル此月ニ入度々川々洪水・・・・八月雨フル・・・米一両・江戸ハ二斗二升ナリト・・・九月折々雨フル・・・諸々悪徒蜂起在々押入盗賊通路ノ追落シ・・・同年十一月十一日東山中花輪入田沢入二十三ケ村百姓竹具ヨ吹人数ヨ集メ大間々近ク押寄セル千五百人ナリ・・・」の大事件が起きるのです。正に天保の大飢饉の始まりであります。
 翌年の天保8年には大阪で「大塩平八郎の乱」が起きます。7年の年代記に奥州仙台領では餓死者が8万人とあります・・・。

2006年03月23日

●赤城山の花々

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フキノトウ、マンサクに続き「ダンコウバイ」の黄色い花が咲き出しました。
「Lindera obtusiloa 」 クスノキ科クロモジ属との事。切って室内に飾ると、芳香が強烈で頭がクラクラする程です。お試しあれ。
逆光でしたので、黄色の色が出ていませんでした。三夜沢から赤城温泉へ向かう道の端で見られます。

[情報提供:御宿総本家館主]

2006年03月22日

●よもやま話「車屋んち」

 今、「車屋」と言えば自動車屋さんですですよね!!でも、昔は水車の車の事、つまり、精米所をやっていた家の事を「車屋んち」とか「下の車」、「上の車」なんて呼んでいました。今でも、そう呼ばれている家があると思います。
 そうそう、我が苗ヶ島町にも「したのくるま」と呼ばれている家があります。江戸時代に水車を動かして精米所を営んでいたらしいです。ですから家のそばにかなり流れの速い川があるはずです。そうでないと水車が動きませんよね。
 苗ヶ島の古文書には、その水に関わる係争事件を記したものが残っております。水車小屋主対地域住民との水争いの事、又、運上(税金)の事などです。明治5年の記録に、水車一輪〜永六十一分四トなどの記録が残っています。
 国は違いますが、東南アジア・タイ国の精米所の経営者は全て中国系タイ人だそうです。なぜか、法律でそう決められていたそうです。勿論、米の流通の全てを中国系の人々に委ねていたわけです。精米所は農民に肥料など米作に必要な物を貸し付けたりし、農民をガンジガラメにしていたということです!!精米所は結構「うま味」のある商売かもしれません。江戸時代も皆、財を残したそうですしね。そうそう、わたくし、昔、東南アジアの米の流通について勉強した事が・・・。誰も信じませんよね!!

2006年03月21日

●よもやま話「風除けのマジナイ」

 「くされ彼岸」あまり良い表現ではありませんが、昔の人の言う事にウソはありません・・・。ここ数日、春の嵐で物凄い強風が吹きまくり、赤城山には雪が・・・10センチ近くもですよ!!。
 赤城山と言っても、ここは前橋市内・・・ついこの間、前橋になったばかりですが!
 正に「くされ彼岸」と言う言葉がピッタリ・・・ですよね!!
 お墓参りして、そんな言葉を残してくれた先祖様に感謝して下さい。
 そうそう、「風除けのマジナイ」っていうのがありました。大風の吹いている間に試してみて下さい。
 高い棒の先に鎌(カマ)を結わえ、風の吹く方向に刃先を向けて立てるんだそうです?
 市之関、柏倉、馬場などあちこちで、秘かに?やっていたらしいです。さあ、成果は如何に! 後でコメントをよろしくお願いします。

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2006年03月20日

●よもやま話「オトカ??」

 「オトカ」そんな言葉、知っていますか??
 昔、よく「オトカに化かされた!」何んて事を聞かされました。
 聞いたことのある人、それは、少々旧式の人?かも知れませんね!
 オトカとは「狐?」「ムジナ?」どちらか、分かりませんが、昔は「オトカに化かされた」、「ムジナに化かされた」と言う話を良く聞かされました。
 苗ヶ島の村人が、大胡方面に出掛けた帰路。勿論、あたりは薄暗くなって来ますよね!河原浜村から鼻ヶ石村の村境の辺りは、当時は鬱蒼とした林が続いていたそうです。とにかく、その辺りが一番薄気味悪い場所で在ったらしいです。そう、旅人もおっかなビックリで通るわけですが・・・出るんだ!!そうです。いや、出たんだ!!そうです。何人もオトカに騙された!!!との話を祖母から聞きました。
 ある旅人は、薄暗くなって来たので近くの農家に、一夜の宿を求めたら・・・翌日、木の葉の中で寝ていたとか・・・。まあ、昔から、オトカは人に取り憑くと言う話が各地に伝わっていますがね。
 その他、「ムジナツキ」なんて言葉も・・・。これは、病人が大飯を食うようになる。つまり、うどんを一ショウギも平らげたとか(柏倉の話)、今の痴呆症かもしれませんね?
 追い払ってもらうため御祓いを・・・!霊験あらたか、とはいかなかったかも・・・?

2006年03月18日

●よもやま話「春の行事」

 ひな祭りが終わり、次ぎの行事は「春の彼岸」の中日がやってきます。
 「くされ彼岸は7日ある」などと言って、天候の変わり目で天気が悪い日が続きます。「暑い寒いも彼岸まで」何んて言葉があるぐらいですから。
 春彼岸はボタモチを作って墓参り。子供心に母親の傍で口の周りを「あんこ」だらけにして無我夢中で食べた思い出が、脳裏をかすめます。
 それが過ぎると、「井戸替え」です。昔はお節句が4月3日だったので、その時にしていました。しかし、これも村中に水道が敷かれると過去のものに・・・。この日は節句なので、何処の家でもデンプのたっぷり入ったすしを作りました。
 三夜沢ではこの日が「櫃石祭り」で、4月8日は、苗ヶ島の金剛寺の「お釈迦様祭り」です。
 うすら甘い?甘茶を振る舞ってくれたのを覚えています。これも途絶えて何ん年になるでしょうか。そして、4月15日は「金剛寺の桜祭り」です。参道石畳両側に露天が一杯出店し、それは賑やかでした。それも途絶えて数十年・・・。
 しかし、昨年、苗ヶ島町の有志が再興・・・フリーマーケットの店が出て、それはそれは、往時を偲ばせるくらい盛大でした。新聞で紹介されたり、行楽のお客様もかなり立ち寄り見物しておりました。今年は4月9日(日)に開催されるそうです。

金剛寺案内マップ

●ようこそ交流村へ*宮城地区見学会

 14日に行われた宮城地区文化財探訪に続き、3月17日(金)、前橋市歴史・文化財学習団体連絡協議会、(会長 阿久津宗二先生)主催の「市内見学会」が、雨交じりの強風が吹きすさぶ中、約50名の市民の方々が参加し開催されました。講師は前回同様、東宮惇允氏です。
 この日は国指定の「阿久沢家住宅」、次ぎに近くにある「阿久沢家墓地・板碑石塔群」、次は「赤城神社」へ向かいました。本当に風雨が強く、又、寒く大変でした。それから、苗ケ島町の金剛寺へ向かい、本堂周辺を散策してから「東宮鉄男大佐の墓地」を見ながら、「斉藤多須久の自宅跡と碑」を歩いて見て回り、金剛寺の本堂に上がり、場所をお借りし昼食をとる事に。
 食べながら志田住職の説明をお聞きしたり、前回同様、秘仏の「掛仏」を拝見させてもらいました。食事後は参道を散策しながら南下、東宮家門前の「芭蕉句碑」、次ぎに馬場町へ向かいました。
 馬場町の稲荷神社境内にある「あ、うん石仏」、「馬頭観音」、そして、大きな石殿について会長の阿久津先生が、これは、地蔵信仰に関係あり、直線上に地蔵岳があると、室町位迄遡る物であろうとの説明がありました。この辺には神社の他に「観音寺」と言うお寺があったそうです。
 それから、「馬場の大灯籠」、吉川商店前の「馬頭観音」を見てから、大前田町の世良田薬師の阿弥陀像」を見て、鼻毛石町の「赤城寺」に向かいました。赤城寺では中沢住職が説明をして下さいました。
 「北爪將監供養塔」、「鼻石」、「爪ひき不動尊」等々を見学し帰路につきました。
 金剛寺を出る頃には、何んとか雨も上がりホットしましたが、寒い一日でした。
 先月文化財保護課で宮城地区の石造物調査をしましたが、その時の調査の専門家が今回の主催者代表の阿久津先生です。

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2006年03月17日

●よもやま話「苗ケ島町の赤城山常夜灯」

 宮城地区文化財探訪で多くの方が宮城地区(交流村)を訪れて下さいました。
 その時のパンフレットの苗ケ島の「赤城山常夜塔」の説明書に、「赤城山山岳信仰。赤城山常夜塔、馬場の石灯籠と、この石灯籠と上に一基あり、倒壊していたものを有志が明治28年(1895年)再建したものであろう。明治28年再建銘・・・」と記されていましたが、実は、この塔は安政2年(1855年)江戸で起きた大地震で倒壊、明治28年に再建したのです。
 三夜沢町の奈良原家に伝わる「奈良原年代記」の安政2年10月2日の項に「十月二日夜四時(四ツ時・現在の夜10時)大地震前代未聞也、其夜中四五度ユル苗島村石灯籠破ル其外諸所破損ス・・・」と記載されています。
 百万都市江戸の直下で起きたこの地震により火災が発生、多くの方が亡くなったそうです(推定1万人位)。倒壊した家屋は14000棟に上ったとの記録があるそうです。しかし、上州では大した被害は無かったと伝えられていますが・・・あったんですよ!
 安政の世は色々の事件が起きた年でもありました。そうそう、前年の安政1年には、前に書いた「紅葉・・・・」の作者糸井鳳助が亡くなっております。

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2006年03月14日

●ようこそ交流村へ*宮城地区文化財探訪

 平成18年3月14日(火)、前橋市教育委員会主催で宮城地区文化財探訪が行われました。
今回は38名の方が参加し、前橋市文化財保護指導員の東宮惇允さんによる解説で、鼻毛石町の赤城寺の六地蔵、種子十三仏塔、北爪将監の供養塔、爪ひき不動尊、鼻石を見学、次に苗ヶ島町の金剛寺の六地蔵石憧、双体道祖神、石殿(おびんずる様)、赤城塔、石殿(開山円義上人の墓)、十一面観音木像、欄間、ナツメ、等々を見学。特別に秘仏の懸仏の公開を志田住職にしていただきました。その後、東宮鉄男大佐の墓地、芭蕉句碑や苗ケ島神社周辺から斉藤多須久翁の碑まで徒歩で散策。最後は阿久沢家住宅を見学し本日の探訪を終了しました。

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【金剛寺(苗ヶ島町)見学の様子】

●市道開通のお知らせ

赤城南面千本桜から赤城温泉方面に向かう市道の一部が全面通行止めとなっていましたが、このたび復旧工事が完了し開通となりました。
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【問い合わせ先】
前橋市宮城支所建設課
電話 027-283-2131(代)

2006年03月12日

●第3回花いっぱいまちづくりコンクール表彰式

 平成18年3月12日(日)、宮城花いっぱい・元気いっぱい推進協議会主催の第3回花いっぱいまちづくりコンクール表彰式が、商工会館で行われました。
 受賞者は次の方々です。
■最優秀賞[個人] 前原幸子さん(苗ヶ島町)
■優秀賞[個人] 大羽賀増次郎さん(鼻毛石町)
    [団体] 大前田フラワーレディース(大前田町)
         若芽子供会(柏倉町)
■優良賞[団体] こたら花の会(馬場町)
         柏倉クリーン大作戦(柏倉町)
■奨励賞[個人] 石橋トシ子さん(柏倉町)
         吉沢研造さん(馬場町)
    [団体] 大前田フラワーフレンド(大前田町)

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【受賞者のみなさん】

2006年03月11日

●よもやま話「赤城南麓の春」

 「曙色天開紫気風光序入青陽“ショショクノテンハ・シキヲヒラキ、フウコウノジョハ・セイヨウニイル”(春は曙、空にはめでたい紫気がたなびき、風景の順番は春に入った)」と言う中国の詩人「王維」の漢詩の如く、既に赤城山中の風景も徐々に春に入りつつあります・・・いや、既に春である。
 蕗のとうが顔を出し、マンサクが咲き、クロモジの花の蕾が、今か今かと咲くのを待っています。真っ黄色の花とその芳香は周囲に春の色香を漂わせます。しかし、まだ雪が降る可能性もかなりある。そして、霜
も・・・。
 鼻ケ石町の古老が「ケヤキの芽の開き具合で霜の有無を見ていたと。ケヤキの芽がムラに開くと霜が降り、ケヤキの芽が揃って開けば霜が無いと!
 時間のある方、観察してみては如何かな・・・?

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2006年03月10日

●よもやま話「赤城火山に恋した男」

 20年位前だろうか、学生?と思しき青年を帯同して、何やら調査している風の3人組が我が家の周りを徘徊・・・していた。声を掛けて見ると、その方は、金沢大學文学部教授の守屋以智雄と、名乗られた。それが守屋先生とお弟子さんとの出会いの始まりでありました。その後、その守屋教室の学生さんとの交流が始まります。彼も又、赤城火山を論文テーマにしているとの事にて、再三、当家を拠点にし赤城山周辺を調査しておりました。その折り、赤城山に関わる守屋先生の逸話をお聞きしました。
 先生は東大の学生時代、ある女性に失恋し、この赤城山に籠もったと。当時の営林署の宿舎を起点として、その燃えたぎるマグマの様な情熱で赤城火山の調査を始め、隅から隅までハンマー片手に、まるで仙人か修験者の様に動き回ったと。
 この赤城火山は成立から終息迄の状態が全て分かる特異な火山であった事が、その後の火山学者としての自分にどれだけ役に立ったかと仰られていたと。
 この山の研究論文に依り、博士号をお取りに成ったと。
 その後現在まで、守屋論文を超す物は出ておりません。赤城関係の書籍、地図等を見る時、守屋と言う名に、貴方も接する機会があると思います。
 そうそう、建長3年(鎌倉時代)の東鑑と言う本に「赤木燃ゆ…」と言う記載があり、守屋先生は「水蒸気爆発説…」を唱えていますが、これには疑義を唱えている先生方も居るようです。
 しかし、平成10年、県企業局が小沼の下で温泉ボーリング掘削をしたところ、1000メートル位の地点から高温の蒸気が噴き出し、里の住民の中には赤城山から濛々と噴き出す白煙を見て、山が爆発するのではとの噂が流れた程であります。
 また、流出した火山性のガスは周辺の一木一草を枯らす程強烈であり、流下したガスと悪水は滝沢温泉迄到達し影響を与えました。
 この時の温泉井戸1000mの孔底温度は167・5度で、温度勾配から推定すると、1500m地点では孔底温度が250度に達すると予想されます。
 地下にこれだけの熱源が存在している事からしても、守屋説の信憑性を否定出来るのでありましょうか?

●「よもやま話」の愚作者より、読者の皆様へ!!

 この所、時間が出来たのか、ちょくちょく投稿させてもらっておりますが、如何せん浅学なもので文体に少々問題あり、分かっているのですが、気にすると何も書けないので・・・本当にゴメンなさい。
 喋るのは証拠が残りませんが、文字にするとそういう訳にはいかないので、本当に困ります。
 また、私一人では出来ぬ事でたくさんの方々に色々とサポートして頂き、本当に感謝・感謝であります。
 私の話は、昔、私自身で聞いた話や、曾祖父の日記に基づいている話なので「ウソ・ウワサ・ガセネタ」等が混じっている場合がありますので、ご容赦の程。
 何れにしても、パソコンに向かい、思いのまま書いている愚か者ですので、気が付いた点がありましたら、ご忠告の程・・・慎み敬いお聞き申し候。       平右衛門敬白

2006年03月09日

●よもやま話「胃腸回復」

 三夜沢赤城神社、東の宮・宮司の奈良原家にこんな記録が残っております。
 「天保十巳亥四月廿一日、松平大和守様湯ノ沢ノ湯汲ニ御役人弐三人遣シ、此中ニ大胡城番高山万右衛門殿杯モ登リ申候、此時モ御初尾金壱両差上、社中不残ニテ御祈祷仕候、前々ハ三度湯汲ニ登リ候ヘドモ、西宮ヘハ御祈祷御頼ミハ無御座候処、此節ハ西社中ヘモ御初尾金壱両差上祈念イタサセ候、・・・」
 現代風に拡大解釈し翻訳すると、「最近市長、公務多忙にて胃の調子が悪いので、藩医の加賀美先生(竜藏寺村)に見て貰ったら、市の北東部にある、赤城の温泉から湧き出すお湯がとっても良いから、汲んで来て飲んで貰った方が良いとの先生の教えに依り、秘書課の職員2〜3人と大胡支所長の高山さんで、赤城温泉・御宿総本家の東宮さんの所へ温泉水を汲みに行った。途中、三夜沢の赤城神社に寄り、宮司さん達に市政の益々の繁栄と市長の健康管理が旨く行くように祈祷して貰い、御礼に御初尾金十万円、お米、お酒、お菓子を神社に奉納した。」このような記録であります。
 お湯汲みは過去三回行われていました。又、神社の祈祷に付いては、西の宮に付いては過去一度も無かったのですが、今回は西宮にも同様なご祈祷依頼があったようです。
 事実、赤城温泉のお湯は胃腸病等に特段の効力があります。そうです、あのサイダー水なんです。機会があったら、お試しあれ!!

2006年03月08日

●よもやま話「湯之沢のサイダースイ」

 湯之沢温泉(現赤城温泉)御宿 総本家の風呂場から眼下に見える河原の岩床から、ジュブジュブと泡の様な、炭酸ガスを含んだ水が出ていました。昔、近在の小学校では、遠足でこの辺りまで良く来ていました。そして、河原に下り、「サイダーだ!!」と言って、この水を飲んでいました。甘酸っぱい様な変な味のする水でありました。
 時々年配の方に、「あのサイダースイまだ出ているの?」って聞かれる事があります。戦時中、物資が無く、代用品で済ませなければならない時代、饅頭作りに必要な炭酸の変わりに、この炭酸を含んだ水を利用したらしいです。

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2006年03月07日

●よもやま話「大前田気質」

 大前田「おおまえた」と読みますが、地元の人は「オオマイタ」と言う方もおります。「え」より「い」の方が発音しやすいからだと考えられます。しかし最近「おおまえだ」と発音したり、表記する人が出て来ております。何故か?やはり「おおまえだ・栄五郎」・・・でしょうか?よそから来た人にとって此処は「おおまえだ」なんでしょう。地名の読み方とは難しいものですね。
 何故、この名が付いたかって?・・・多分・・・大きな田んぼがあったからでしょう。旧宮城村の中で一番良い「田圃」がある所で、米が経済の中心であった江戸時代では、一番豊かな土地であったと思われます。
 太田の世良田との関係が伝えられる「大前田・世良田」、そして「世良田田圃」、元宮城村長を務めた中村家には「昔、新田の世良田から移住して来た」との伝承ありと聞いたことがあります。
 豊かな土地には甘い蜜が・・・栄五郎を生み出した下地がそこにあるのでしょうか。大前田の獅子舞も五穀豊穣を願い祝うもの、幕末頃には村の若者が栄五郎に憧れ、また、遊興にふけって仕方が無かったと伝えられております。結構、男気のある土地柄でもあります。
 酒と女と博打だけは御法度と地下の栄五郎親分も・・・屹度・・・程々なら・・・いい・・・なんて?

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【大前田町 大前田栄五郎の墓】

2006年03月06日

●よもやま話「臭〜い話」

 昭和30年前後の話、「アメリカ人つうのは、肥だめの掛かった野菜なんか絶対に喰わねえーんだっ、つうぞ!!科学肥料じゃあ、ねーと、駄目なんだっ、つうで!」何んて、噂話を聞いた憶えがあります。そんな昔の話ではありません。でも、もう50年経ちますか・・・。
 昨年のニュースで、中国野菜の中に「寄生虫の卵の話が」ありましたが、それって、人糞・・・?そう、「肥だめ」です。掛けていなければ出ないはずなんです。50年経つと、我々日本人もアメリカ人並になったのでしょう。しかし、昔は、これが無ければ、米も野菜も出来なかったんです。
 便所の汲み取りの利権は想像し難い程すごい物でした。特に、江戸からくみ取られた「おわい」は武州・川越等へ船で運び出され農家の肥料とされたのです。長屋(現代のアパート)を例にとると、当時、便所は全て共同で、その便所の権利は全て大家さんの物でした。10人位の借家人で、2分〜3分。20人の借家人で1両〜1両2分位になったそうです。
 昔の人なら覚えていると思いますが、天秤棒で2ツの「ため桶」を担いでいましたが、2ツの桶で「一荷」と言いました。この一荷に含まれる肥料成分は「硫安」と「溶成燐肥」に換算すると約5K分に相当するらしいです。1年間で1人が用をたす量は、平均桶「20杯分」だそうです。当時、江戸は100万都市でしたので、そこで、生成された下肥は化学肥料に換算すると約5万トン分に相当するとの事です。
 その中でも、大名屋敷、金持ちや、料理屋等々の旨い物を食べている便所の物は高値で取引されたそうです。そうそう、江戸でなくとも、当時、苗ケ島の温泉宿から排出された物にもかなりのプレミアが・・・。下村の人が買い取り、この山道を、エッコラ・シャッコラ、ピチャ・ピチャさせながら担ぎ下ろしたそうです。今みたいな良い道じゃあ無いんですよ!!
 変な話でゴメンナサイ。

2006年03月03日

●よもやま話「東宮鉄男」

 東宮鉄男。宮城村初代村長東宮六郎治吉勝の次男である。
 前橋中学時代は海軍士官を志したが陸軍士官学校に進み、軍人の道を歩む。幼少の頃より父・六郎治の背を見て育った彼は、農民の苦しみを知る者であった。時代背景は正に現今の北朝鮮の様であったろうと考察す。自分の部下に成った下士官・兵達の家庭環境の劣悪さを知り、国の前途を如何に憂いた事か。後、満州移民事業計画を発案するに至るのである。しかし、敗戦を迎え、満蒙開拓団の悲劇の結末・・・。
 国策とは言え、他国に侵略しての事業はいかなる批評も禁じ得ない。東宮宗家当主・東宮惇允氏と平成8年に亡くなった未亡人の東宮操氏は、今迄も、今後も、東宮鉄男に関しての論評は、これだけ多くの被害者を出している以上控えざるを得ずとの共通認識で一致。為に、東宮惇允氏が所有している移民事業関連資料の秘匿に努めて来た。
 しかし、平成8年当時、中国と日本の大學・在野の研究関係者で清川氏という方が、敗戦後60年経過したので、中国東北部に於ける日本式農業の影響等の調査研究を始めるので原資料があれば見せて欲しいとの要請で貸し出しを諒解した経緯があった。しかし、中国政府の反対により、中止と成ったとの連絡が入る。
 そんな中、平成18年2月、NHK関連会社より満州国関連のドキュメンタリーを制作したい(BS放送2時間ドラマ)ので取材協力を!!との事にて、如何なる批評をされても仕方ない、資料提供やむなしと判断し提供する事と相成り、NHKの担当ディレクターの方達が数回来訪。多くの資料の中から重要な書類・写真等を注出する作業を行いました。
 今回は、大學の先生を帯同し、資料価値の確認・精査を行っていきました。これらの資料は、近現代史の一級資料で有るとのこと。何らかの保存方法を検討して欲しいとの話の中で、かねて、京都大学や在野の資料館が欲しがったが、辞退した経緯がある。また、群馬県の文書館に相談した事もあったが余り興味を示してくれなかったが・・・。大學の先生は、国会図書館へとも・・・。
 ドラマ制作が正式決定をして、放映期日が決まったら、後日報告したいと思います。

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【貴重な資料の数々】

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【市指定史跡 東宮鉄男大佐の墓】

2006年03月02日

●よもやま話「学童疎開児童からの便り」

 3月1日、私のパソコンに土屋栄一さんと言う方からメールが届いていました。「本日、3月1日の午後6時半頃、NHK番組の中で、私が撮ったメジロと桜の映像が載ると・・・」。ちょうど、その時間直前に帰宅しパソコンを開きましたので、すぐにテレビのスイッチを入れ映像を見ました。そこには、情報提供者の土屋さんの名が画面に出ていました。
 土屋さんは学童疎開児童として、敗戦直前、苗ケ島町の金剛寺に東京都王子第一小学校から疎開して来ていた一人でした。その中の数人の方々とは、今でも交流を続けております。偶然の事ですが、私の娘が昨年の夏、王子の公団アパートに引っ越しました。奇遇と言うか、眼下に王子小学校が・・・。
 もうじき金剛寺のしだれ桜が咲くでしょう。その桜の木の下に、当時の王子第一小学校長の句碑が有ります。号を「杜牛」と称し、地区有志との交流の足跡を偲ばせております。
 そうそう、子供達は、近所の農家の手伝いにも出ていたそうです。麦踏み作業の途中、B29が太田を爆撃・・・子供達は太田方面の空ばかり眺めていて麦踏みを放ったらかしたため、春先、麦に影響が出た・・・なんて話を祖母がしておりました。大人も一緒に見てたのでは?

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【当時の写真と土屋少年が祖父宛に出したハガキ】

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【句碑】

2006年03月01日

●よもやま話「電話の話」

 旧宮城村の村史によると、宮城村に電話が引かれたのは、昭和4年12月とあります。しかし、正確には昭和元年(1926年)7月に「馬場駐在」に電話が架設されたのが最初です。そして、昭和5年7月13日に宮城村役場に電話架設がなされ開通したのでした。それからの事は宮城村史をご覧ください。(1008頁)
 本当に最近の出来事なんですね。それが今や携帯電話の時代です・・・。その激変ぶりを誰が予想したでしょうか。
 でも、上毛電鉄だって前橋・桐生間の開通はその頃なんですよ!! 昭和3年11月10日です。
 翌年の昭和4年9月1日、大胡〜馬場間に自動車が開通しました。日に4回発車だったらしいです。
 そうそう、前橋〜大胡間の自動車は大正8年の事です。自動車ってのは乗合バスの様な物です。村史によると、大胡の清水タクシーがフォード社の7人乗りの自動車を使ったとあります。当時は「乗合自動車」と称していたと書かれていました(村史997頁)。