先日、
よもやま話「楫取県令と斉藤多須久」に「群馬県に於ける楫取素彦の治績を調べています。赤城村史の赤城神社の項に、楫取の漢詩が掲載されています。いつ頃のことか、何故来たのかその目的を知りたいと思っています。また、吉勝翁物がたりの湯之沢温泉沿革に項に、明治15年4月楫取来遊と書いてあります。これについても来た目的について知りたいと思っています。」というお尋ねがありましたので、「楫取県令と斉藤多須久」の続編ということで書きたいと思います。
わたくしの自宅の裏手(前橋市苗ヶ島町)に金剛寺と言う真言宗豊山派の寺がありますが、それよりさらに少し上ると、左手に桜井商店と言う酒屋さんがあります。その斜め前が斉藤多須久翁の生家であります。孫の玉男先生(ゼームス坂病院長で高村光太郎の妻、智恵子の主治医)もそこで生を受けました。
ご存じの通り、多須久翁は幕末に単身京に上がり医術を学び、また国学を学んだり、倒幕の志士達との交流等々を通し明治維新に関わった人々との交流があったと聞き及んでおります。自宅には、富士見村の船津伝治平翁もよく来られていたと伝えられております。
さて、県令と斉藤翁の関係ですが、恐らく県令が群馬に任じられるに付き、事前に斉藤翁との接触があったと推察されます。県令との関係を紐解いていくと良く分かると思います。船津翁の活躍に付いても、県令と斉藤翁との関係が見え隠れしております。
そして、湯之沢温泉に来遊した経緯に付いては、詩人の東宮七男が、後に奥様となられた方とお忍びで遊山に来られたと書いておりますが、それは事実では御座いません。当時の詳細に亘る記録が残されております。
当家は、赤城山中に於いて湯宿を経営いたしておりますが、創業は元禄2年(1689年)で、時の前橋藩主、酒井公が領内総検地のため苗ヶ島村に来られ、本陣を金剛寺に置き、そこに宿泊したそうです。時の苗ヶ島村の名主が東宮家五代の祖、東宮平右衛門でした。その折り、温泉営業を願い出たのが始まりです。営業は、苗ヶ島村、金剛寺等も関与いたしております。しかし、翌年の元禄3年、三夜沢・赤城神社神官より、温泉場は神領である、苗ヶ島村の百姓共が勝手に入り込み湯宿を経営し始めたと幕府に訴えを出します。この辺の経緯については県史に詳しく書かれていると思います。その他、温泉が冷泉故に暖めなければ成らず、周りの山々の木々を切って薪に使用致しておりました、と同時に、室沢村(旧粕川村)の石原孫兵衛との関係があります。
孫兵衛は前橋藩の認可のもとに大掛かりな炭の生産をやっておりました。為に、赤城南麓の森林が禿げ山になり、水害が多発し下村の住民は、湯宿の連中が勝手に木々を伐採するから里村に水が来ない、と藩に訴え出します。
藩の許可を得て事業をやっている孫兵衛は訴えられないので、その責任を東宮家に向けたのです。しかし、何度訴えてもその訴えを藩は却下します。騒動が起きる度に温泉場は火を掛けられ、6回以上放火で燃えております。その紛擾事件は明治に入っても続きます。この入会紛擾事件は各地で多発致しておりました。その解決の為に県令が自ら現地視察に訪れたのであります。その経緯は詳しく記録されております。
東宮家と県令との仲介の労をとって下さったのが斉藤翁です。県令現地訪問の知らせに、下村住民が三夜沢村に集結、代表者が湯之沢温泉に上がり県令に直訴したそうです。しかし、県令は、今日は遊山に来たのである、訴えはしかるべき道筋をとうして県に上げなさいと却下したそうです。この問題に付いては、事前に郡役所から、郡長自ら東宮家自宅に泊まり掛けで元禄時代からの古文書を詳細に調べ、そして現地視察、そして判決に至ります。判決に不服を持った住民に依り、明治18年、再度温泉場は灰燼にきします。その後、東宮家は温泉業を一時廃業、当時の当主、東宮六郎治は宮城村初代の村長に就任し昭和7年に没します。概略はこんな事であります。