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2007年03月29日

●嶺公園のミズバショウ

3月29日の様子
赤城南麓の春を告げる、嶺公園のミズバショウの様子です。
(3月29日(木)撮影)


◆◇これまでの様子◇◆
嶺公園のミズバショウ
(3月24日撮影)


(3月18日撮影)

嶺公園のミズバショウ
(3月10日撮影)

前橋市嶺公園へのリンク

2007年03月24日

●赤城山の花々「遅い早春の便り」

梅の花赤城山への登山口とも言える、三夜沢・赤城神社の周辺では、やっと梅の花が咲き始めました。
例年の事ですが、この辺りに成りますと、梅も桜も同時に咲いているっていう感じです。
国道353周辺から上は、秋の味覚の柿さえ温度が足りなく甘柿になりません。

情報提供:御宿総本家 館主

2007年03月21日

●赤城山の花々「ダンコウバイ」

ダンコウバイの花赤城山の早春の便りで、2月26日に「マンサク」の花をご紹介しましたが、次がこの「ダンコウバイ」の黄色い花です。
いよいよ、赤城南面の忠治温泉付近で咲き始めました。これから、段々と赤城温泉方面に咲いて行くでしょう。この花は、強い芳香を放って咲いています。別名ウコン花とも言うそうです。
情報提供:御宿総本家 館主

2007年03月12日

●みやぎ桜守の会*桜苗移植作業

平成19年3月11日(日)、みやぎ桜守の会(櫻井敏道会長)による桜苗移植作業が、みやぎ千本桜の森で行われました。
この日は、冷たい雨、そして、雨が上がった後の強風と大変な天候でしたが、約50名の会員さんが桜の苗を移植しました。

2007年03月08日

●よもやま話「市之関の阿久沢宗家を訪ねて」

  2月の終わりに市の文化財巡視に出掛けました。
  最初は三夜沢の赤城神社へ。真隅田宮司が札所前で薪ストーブの調整をしておりましたので、神社に変化が無いか様子を伺いました。次ぎに「中門」、「本殿」、「俵杉」の目視点検をし、神社を辞し「惣門」を点検。次ぎに、柏倉の東昌寺へ向かいました。途中、阿久沢家を点検しながら市之関の住吉神社へ行き「算額」を見てから、阿久沢一郎家(阿久沢宗家)に立ち寄りました。
阿久沢一郎宅阿久沢一郎宅  入り口すぐ右横の菜園に阿久沢さんがおりましたので声をお掛けしましたら、昨年怪我をし、やっと少し動ける様になったと以前より少し力無く声をお出しになっておりました。屋敷回りを見せて欲しいと申しましたら、快く隅々まで案内をして下さいました。
  とにかく屋敷裏手に回りますと、砦の土居、堀が往時そのままに現存している事に驚かされました。隈無く見させてもらい、門から屋敷方向等の写真を撮らせて貰い(旧母屋は馬場、豊島源右衛門宅)、辞しました。
  阿久沢さんは宮城村教育委員等を歴任されたり、私と同じ文化財調査委員を拝命致しておりました。また、長らく宮城村教育長を務められていた平林先生とは前中の同級生であるとの事です。
  その次ぎに、西隣の新宅、阿久沢重悦さん宅を訪問し、重悦さん御夫婦に丁重にもてなされ、奥様に屋敷回りを案内して戴きました。屋敷の西の畑(元田圃)に案内されアブラ菜をたくさん頂戴しました。
前方が住吉神社  この畑に立つと、この砦の西側の概要が良く分かります。地形を利用したかなり素晴らしいものです。谷を挟んだ西前方には住吉神社があります。恐らく、この神社も砦の一角に組み込まれていた物と推測出来ます。本家の一郎さんは「俺らんちの神社」と呼んでいると奥様が話して下さいました。先頃まで、重悦さんがこの社の宮司をなさっていましたが、最近、都丸(故人・文化財調査委員を歴任)さんのお孫さんに変わったと申しておりました。お茶を戴きながら、色々のお話を伺う事が出来ました。「阿久沢能登守の城が落城する時、お姫様を貰った。もう一人の娘は、前橋の南の方に、息子は…」なんて話しです。「貰うにつけ、名字も貰った。六本木を称していたので、名前を変えるのを快しとしない一族がいて、今でも六本木を称している…」と。阿久沢重悦宅とにかく興味ある話しを伺い、古い屋敷の写真を接写させて貰い重悦氏宅を辞しました。この写真は、重悦氏が軍隊時代、シベリア抑留時代肌身離さず持っていた小さな写真を引き伸ばしたとの事だそうです。
  この場所の北東方面前方には大崎砦がありますが、この屋敷の前一帯が砦の跡(昭和63年、宮城村教育委員会が発掘調査)である事が判明しており、その規模の大きさには驚きます。
  ここを「三本木城」と命名し、字名は「前田」で、堀・土居・井などが検出されました。きっと阿久沢一門の砦でありましょう。そして、そのずっと先が西屋敷・六本木砦です。ほぼ並んで、防御態勢が敷ける様になっているのです。この市之関・柏倉の土豪達が連合体を組んで戦う体制を作っていたのでは無いでしょうか。
  市之関は阿久沢を中心に、この一帯に土着している氏族が、そして柏倉は、前にも書きましたが、大崎、六本木等々の氏族が共に連携してこの防御陣地の守備に付いていたと推測出来るのではないでしょうか?

2007年03月07日

●「電力中央研究所赤城試験センター」一般公開

赤城山の中腹に3つの鉄塔があるのをご存じでしょうか。
この鉄塔は財団法人電力中央研究所赤城試験センターの研究施設ですが、当センターでは次のとおり一般公開が行われます。

■開催日  5月20日(日) 10時〜15時
■開催場所 赤城試験センター(前橋市苗ヶ島町2567)
■交通アクセス 上毛電鉄大胡駅〜車10分
        (国道353号線沿い 赤城南面千本桜西隣)
■問い合わせ先 赤城試験センター/027−283−2721
         http://criepi.denken.or.jp/jp/akagi/
■ポイント
海のない群馬県で海の魚「トラフグ」が元気に泳ぎ回る姿が見られます。
その他、野菜工場や雷の実験などをご覧いただけます。
また、近隣の団体のご協力による「伝統芸能と音楽の広場」や地元特産物の販売コーナーも好評です。

2007年03月06日

●第1回赤城南面千本桜フォトコンテスト

夜桜 赤城南面千本桜まつり実行委員会では、「第1回赤城南面千本桜フォトコンテスト」を開催いたします。

赤城南面千本桜の魅力あふれる作品をふるってご応募ください。
■応募締切  平成19年5月31日


詳しいことは、下記のチラシ(PDFファイル)をご覧ください。
赤城南面千本桜フォトコンテスト(PDFファイル)
※ インクジェットプリンターでの応募は不可となっています。ご注意ください。


問い合わせ先 赤城南面千本桜まつり実行委員会
電話 027-283-2131

2007年03月04日

●よもやま話「阿久沢一門」

  平成19年の2月吉日、元宮城村議会議長 阿久沢徳男氏の黄綬褒章受章をお祝いする会が、前橋のマーキュリーホテルで催された。300人余の人達が出席した盛大な会で、その人柄を知る事が出来るものであった。とにかく、小寺県知事、高木前橋市長始め、そうそうとしたお歴々が席を埋めていた。在野の士のお祝いに知事自らが出席すると言う事は希な事であろう。阿久沢一門の隆盛を見る事の出来たシーンであった。

  この会の発起人代表こそ、赤城南麓森林組合長 阿久沢勝史氏である。過日、組合長宅を訪問した折に語っていたが、俺は良い後継者に恵まれていると、嬉々として語っていた。宮城地区西部の総大将を自他共に認めるのが勝史氏であり、その後継者が徳男氏である。氏の父親である俊夫氏も宮城村長を務め、その後、旧大栄信用金庫理事長として辣腕を振るい躍進させた人物であった。昭和55年当時の陸上自衛隊第十二師団長(現十二旅団)の陸将・藤吉俊男氏は阿久沢俊夫氏が旧軍時代の上官であったと語っていた。軍隊で学んだ統率力を遺憾なく発揮した人物であり、若い頃は剣道を良くし国体の前身である明治神宮大会に県代表として出場した経験をも持った武人でもある。戦国の世に活躍した阿久沢一門の系譜を現在まで脈々と引き継いでいる事が良く分かる。

  戦国時代に活躍した、阿久沢一門の牙城であった深沢城、黒保根宿廻の城(じょう)地区の阿久沢能登守の城跡に立つと、眼下に渡良瀬川を望む要害の地で活躍した一門の歴史を想像する事ができる。阿久沢宗家に残された古文書はどういう経緯を辿ったのか不明であると言うが、現在京都大学に保管されている。小田原北条家等から与えられた感状が現存しているが、正に、阿久沢徳男氏が受賞した黄綬表彰に匹敵する物であろう。国から授与された感状の方が上であろうが、当時は命を懸けた感状であり一門に授けられた物なのだから…。

  さて、宮城地区の大前田砦の主も阿久沢であり、苗ヶ島砦の主も阿久沢である。また、柏倉でも阿久沢一門が勢力を張っていた。全て、同族であろう。市之関の阿久沢は元々、六本木を称していたが、阿久沢能登守の娘を嫁に迎えた折りに、姓を阿久沢に変えたと伝えられている。家紋も表紋は阿久沢能登守と同じ「丸之内三ツすはま」で裏紋は北条の紋所「三ツ鱗」を使用している。苗ヶ島の阿久沢と大前田の阿久沢、柏倉の阿久沢の紋所は共に「三ツ鱗」である。

  苗ヶ島町の忠治温泉前に御殿山と呼ばれる小高い山がある。往古、桃井播磨守の居城であったと伝えられているが、深沢城との関係も伝えられている。また、市之関町地内には最近まで桃井を称する一族が住んで居たと…それが、桃井播磨守の末裔であるとの話しを、阿久沢一門の方が話して下さったことがある。

2007年03月02日

●「宮城」*宮城県メールマガジンから

宮城県が発行しているメールマガジン「メルマガ・みやぎ」の第138号(3月2日発行)に、宮城地区のことが紹介されましたのでご紹介します。

******* メルマガ・みやぎ 第138号から抜粋 *******

□ 関東の「みやぎ」
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 宮城県の「宮城」のいわれは、塩竈神社(宮)と多賀城(城)によるとするもの、屯倉(ミヤケ)が宮城となったとするもの、また多賀城=「みちのく遠の朝廷(とおのみかど)」の意味で「宮城」とされたという説があります。

 ところで、関東地方にも「宮城」という地名がいくつかあることをご存じでしょうか。

 東京都足立区、荒川と隅田川に囲まれた宮城一丁目〜二丁目は、かつて宮城村といわれた地域です。荒川放水路(現:荒川)開削後、北宮城町と南宮城町に分かれ、戦後の住居表示施行によって、北宮城は扇・江北などの一部になり、南宮城町だけが宮城一、二丁目として残ったといいます。

 宮城は昔、「宮木」とも書いたとのこと。室町〜戦国期の武将、岩付太田氏の重臣宮城氏がこの地を治めていたことによるともいわれていますが、はっきりとした由来はよく分かっていないようです。

 現在は住宅地がその大部分を占め、一丁目の足立区立宮城図書館と、二丁目の水処理場などが主な建物です。

 もう一つ、群馬県にも勢多郡宮城村という地名がありました。平成16年12月の市町村合併により、現在は前橋市の一部となっています。

 群馬県のほぼ中央部に位置し、自然豊かな土地柄。赤城神社をはじめ、現存する草葦民家としては群馬県内で最古という阿久沢家住宅など歴史的遺産も多く、最近では、ぐんまフラワーパークや赤城高原牧場クローネンベルクなどに多くの観光客が訪れています。宮城という地名は、赤城神社と赤城山に由来しているともいわれています。

 東京都の「宮城」と群馬県の「宮城」。実は両者には関わりがあります。同じ地名が縁で、足立区の「足立凧(たこ)まつり」に前橋市の子どもたちが参加したり、また前橋市の「赤城南面千本桜まつり」に足立区からのお花見ツアーが企画されるなど、地域ぐるみでの交流が続いているとのこと。

 宮城という地名は、北海道伊達市、千葉県館山市、岐阜県飛騨市、沖縄県浦添市など全国にあります。各地の「宮城」同志がその名にちなみ、交流を深め合うのも面白いかもしれません。

●よもやま話「柏倉の大崎屋敷の郭を訪ねて」

大崎正夫家  柏倉の大崎正夫家を訪問した。門構えや母屋の造りもなかなかの物である。
  大崎正夫家は、大崎長門家の新宅との事、江戸時代には名主を務めた事もある由。右隣りは「大崎金兵衛」と言う表札が掛かった廃屋がある。この建物は長屋門になっていた。この建物も往時はなかなかの構造物で大崎一族が如何に優勢であったかを知る事が出来た。無断で敷地内に立ち入り、大崎長門家裏山をぐるっと拝見させて貰ったが、大崎長門屋敷を含むこの一帯は、砦の様相を呈しており(柏倉の砦・大崎屋敷)、裏山を散策させて貰ったお陰で、その様子をつぶさに知る事が出来たのは収穫だった。
  大崎金兵衛氏(故人)は鼻毛石で薬局を営む傍ら、宮城村商工会長等も歴任した人物で、息子さんは現在、群馬県理事・産業経済担当の大崎茂樹氏である。
  一門の歴史に付いては既に記しているので省略させて戴くが、何れにしても戦国時代から江戸時代を通して、この一帯の指導者として常に先頭を走っていたのは事実である。現在の市議会議員・大崎美一氏や県議会議員・中村紀雄氏夫人も同門の出である。