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2007年03月04日

●よもやま話「阿久沢一門」

  平成19年の2月吉日、元宮城村議会議長 阿久沢徳男氏の黄綬褒章受章をお祝いする会が、前橋のマーキュリーホテルで催された。300人余の人達が出席した盛大な会で、その人柄を知る事が出来るものであった。とにかく、小寺県知事、高木前橋市長始め、そうそうとしたお歴々が席を埋めていた。在野の士のお祝いに知事自らが出席すると言う事は希な事であろう。阿久沢一門の隆盛を見る事の出来たシーンであった。

  この会の発起人代表こそ、赤城南麓森林組合長 阿久沢勝史氏である。過日、組合長宅を訪問した折に語っていたが、俺は良い後継者に恵まれていると、嬉々として語っていた。宮城地区西部の総大将を自他共に認めるのが勝史氏であり、その後継者が徳男氏である。氏の父親である俊夫氏も宮城村長を務め、その後、旧大栄信用金庫理事長として辣腕を振るい躍進させた人物であった。昭和55年当時の陸上自衛隊第十二師団長(現十二旅団)の陸将・藤吉俊男氏は阿久沢俊夫氏が旧軍時代の上官であったと語っていた。軍隊で学んだ統率力を遺憾なく発揮した人物であり、若い頃は剣道を良くし国体の前身である明治神宮大会に県代表として出場した経験をも持った武人でもある。戦国の世に活躍した阿久沢一門の系譜を現在まで脈々と引き継いでいる事が良く分かる。

  戦国時代に活躍した、阿久沢一門の牙城であった深沢城、黒保根宿廻の城(じょう)地区の阿久沢能登守の城跡に立つと、眼下に渡良瀬川を望む要害の地で活躍した一門の歴史を想像する事ができる。阿久沢宗家に残された古文書はどういう経緯を辿ったのか不明であると言うが、現在京都大学に保管されている。小田原北条家等から与えられた感状が現存しているが、正に、阿久沢徳男氏が受賞した黄綬表彰に匹敵する物であろう。国から授与された感状の方が上であろうが、当時は命を懸けた感状であり一門に授けられた物なのだから…。

  さて、宮城地区の大前田砦の主も阿久沢であり、苗ヶ島砦の主も阿久沢である。また、柏倉でも阿久沢一門が勢力を張っていた。全て、同族であろう。市之関の阿久沢は元々、六本木を称していたが、阿久沢能登守の娘を嫁に迎えた折りに、姓を阿久沢に変えたと伝えられている。家紋も表紋は阿久沢能登守と同じ「丸之内三ツすはま」で裏紋は北条の紋所「三ツ鱗」を使用している。苗ヶ島の阿久沢と大前田の阿久沢、柏倉の阿久沢の紋所は共に「三ツ鱗」である。

  苗ヶ島町の忠治温泉前に御殿山と呼ばれる小高い山がある。往古、桃井播磨守の居城であったと伝えられているが、深沢城との関係も伝えられている。また、市之関町地内には最近まで桃井を称する一族が住んで居たと…それが、桃井播磨守の末裔であるとの話しを、阿久沢一門の方が話して下さったことがある。

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