●大前田町の獅子舞*大前田町秋祭
大前田町では、10月15日(日)に、「大前田町秋祭」が盛大に開催されます。
この日は、会場の諏訪神社で、市の無形文化財に指定されている獅子舞が奉納されます。
■獅子舞奉納予定時間(獅子舞は4回奉納されます。時間は予定です。)
12時〜、13時〜、14時10分〜、15時20分〜
■秋祭演芸会
16時〜21時30分
大前田町では、10月15日(日)に、「大前田町秋祭」が盛大に開催されます。
この日は、会場の諏訪神社で、市の無形文化財に指定されている獅子舞が奉納されます。
■獅子舞奉納予定時間(獅子舞は4回奉納されます。時間は予定です。)
12時〜、13時〜、14時10分〜、15時20分〜
■秋祭演芸会
16時〜21時30分
お彼岸のせいか??この所、お墓巡りを…??
三夜沢町の古いお墓を隈無く廻って古い墓石を探しまわる毎日です。先日も土に埋もれた斉藤家の五輪塔を調査致しました。なかなか持ち主にお会いする事が出来ずに困っていました。たまたま、畑仕事をしていた倉橋さんにその話をした所、もう翌朝には所有者の許可を頂戴して下さったのです。五輪塔は塔身の八分目程が土に埋まっている状態なので、塔身部分だけでも掘り起こし計測したかったのです。お陰を持ちまして、無事計測出来ました。
また、墓参りに来ていた板橋さんにもお会いでき、大きな五輪塔の持ち主と分かり、拓本を取る許可を頂戴する事が出来ました。ジョギング途中の真隅田さんには石殿の案内をして戴きました。神様のお導きか??そんな気のする今日この頃です。
さて、一之鳥居の近くにある石殿ですが、その向いている方向に少々興味が??本来なら、神社の方向か赤城山…山頂方向(地蔵・荒山)を向いている筈なんですが、その向いている方向は北北東…宇通の方向の様に感じられ…??今の段階では何んとも言えませんが…。お陰を持ちまして、少しずつ何かが見えて来るような気がいたしております。墓石には廃仏毀釈の影響がかなりあるのでは…と思っておりましたが、そんなに感ずる事が出来ませんでした。一之鳥居から手洗橋へ、橋を渡って別荘地の中を通り旧道を南下しましたが、R353の手前迄進んだ所で、松枯れの大木が道を塞いで通れませんで、やむなく引き返しました。金剛寺の赤城塔は手洗橋付近にあったそうですが、盗難を恐れて金剛寺境内に移したと、上野丑之助翁が言っていた事を思い出しましたので、その足跡を辿った次第です。
柏倉町の東昌寺本堂の西北に、歴代住職の墓地があります。突き当たりに物凄く立派な石殿が安置されています。恐らく、この近在で最大の石殿かも知れません。そこには木の扉が付いておりますが、開け放たれています。
中には座したお坊様の石像が安置されておりました。石殿の両脇には「十世現住當寺中興開山 堅者法印元栄」と刻まれております。
東昌寺は天台宗の寺院で「諏訪山 薬王院 東昌寺」とも言い、比叡山延暦寺の末寺です。かつて、新里・新川の善昌寺の末寺と伝えられています。善昌寺は長楽寺の末・・・・了需??、宮城地内の他寺、苗ヶ島町の金剛寺や鼻毛石町の赤城寺は共に真言宗ですが、ここは天台宗です。この元栄師の時代は善昌寺の末寺でした。その事は、享保12年(1727年)大胡東領西柏倉村寺社帳に書かれております。
由緒書の中に、伝教大師(最澄)の開基の伝承を持つと書かれています(天台宗は、中国の天台大師の教えを基とし、伝教大師(最澄)によって開かれた宗派で、比叡山延暦寺を総本山としています)。
この地は、大崎一門、六本木一門、深津一門、阿久沢一門、北爪一門と、蒼々たる強者が活躍した土地であります。しかし、戦国の世から泰平の世へと移り変わり行く中で、江戸初期には、この寺も荒れ寺と成っていたのかも??それを、元栄住職が並々ならぬ努力で再建を果たした・・・んでは無いのでしょうか。その労苦に報うべく、檀家の皆さんがこの立派な石殿を造立したのでは・・・。如何に村人から慕われていたか、この石殿を見ると分かる様な気がします。
そして、開け放たれた石室の中から、何時までも、村人の安寧をお祈りしているお姿た・・・・既に、280有余年の歳月が流れています。
久しぶりに赤城山の姿を見ることができました。
フヨウの花もいよいよ終盤にかかっているようです。(県道苗ヶ島・飯土井線(県道114号)の大前田町沿線)
先日、文化財パトロールのため、三夜沢町の赤城神社へ出向いた。帰路、山の中にある墓地を散策…霊気が籠もる…時としてそう感じる事がある、そんな感じの墓地であった。
墓地の一角には立派な五輪塔が、その存在を誇示するかの様に立っていた。年号等は刻まれていなかった。少し離れた林の中にもう一基、宝塔があった。これもすばらしい宝塔である。ともに墓地から少し離れた位置に鎮座している。
この宝塔は大前田町の世良田薬師境内にある三基の赤城塔の内の一つに似ている。この宝塔は他の赤城塔と胴の部分が違い、太鼓の様な胴である。しかし、以前の調査でこれも赤城塔と称しているので??多分そうなんだろう…。同様な胴を持つ宝塔は赤城寺の歴代住職の墓石列の中にも並んでいる。ともに大きさ、型が類似している。そして今回の宝塔も同一な物である。他の二基より完型である事、そして西側側面に何やら刻まれている痕跡がある。後日拓本を取る必要がありそうだ。
世良田薬師・赤城寺・三夜沢共に了需との関係が深い地である…きっと私に何かを訴えたかったのであろう。
収穫の秋です! 赤城高原牧場クローネンベルク・ドイツ村の園内では、栗拾い体験が始まっています。
□平日は予約が必要です。
□天候、育成状況によって中止となる場合があります。
赤城高原牧場クローネンベルク イベント情報
赤城高原牧場クローネンベルク 案内マップ
詳しいことは、赤城高原牧場クローネンベルクにお問い合わせください。
【問い合わせ先】
赤城高原牧場クローネンベルク
TEL:027-283-8451 FAX:027-283-8452
http://www.doitsumura.com
前橋市教育委員会から文化財保護指導員を委嘱され、毎月、宮城地区の文化財パトロールをしている。旧宮城村は文化財に造詣が深かった、故上野丑之助翁(元宮城村長・元文化財調査委員長)が、早くからその価値を認め、群馬県文化財保護課の指導の元に、多くの石造物等々を宮城村指定文化財として指定した経緯があり、他町村より指定物件が多い。前橋市に合併後はその全てが市の文化財として認定されている。
しかし、その全てをパトロールする訳では無い。その中で特に重要と思われる17件を抽出、そこを毎月回り、報告書を書いて提出するのである。「国指定の重要建造物・阿久沢家住宅」、「県指定・赤城神社本殿並びに中門」、「県指定・赤城神社惣門」、「県指定・赤城神社のたわらスギ」、「忠治の赤城塔」、「世良田薬師の阿弥陀像」、「金剛寺六地蔵の石幢」、「石殿(開山円義上人の墓)」、「東宮鉄男大佐の墓」、「大前田栄五郎の墓」、「大前田地蔵菩薩石像」、「赤城寺六地蔵石幢」、「北爪将監の供養塔」、「宮城流算額」、「道祖神(柏倉)」、「凝灰岩石仏(東昌寺)」、「歌舞伎舞台(諏訪神社)」の以上17ケ所である。
この指導員、チャランポランな性格故、決まった日に巡回出来ず、訪問先の方々に(文化財)にご迷惑を掛けている。時々、皆さんに、どうして何時も訪問日が違うの??と声をかけられる??聞こえて来るんです…地の底から声が…。やっぱり、可笑しいんですかね!!この指導員…。
苗ヶ島町に「餅屋」と言う屋号の家がある。昔、湯の沢(現赤城温泉)で餅屋をやっていたのでその名が付いたと…伝えられている。
今もあるんですか??ネーガシマ(苗ケ島)にその家(うち)は??…ありますよ!!「もちや」・「もちや」と今でもその屋号で呼ばれています。この事、書いて良いか了解の電話を入れたら、今でもその方が通りが良いと、「もちやの広ちゃん」が電話口の向こうで言っていました。但し、現在は餅屋で無く「造園業」を生業としています。
明治2年6月 「勢多郡苗ケ島村湯之沢温泉中店商い品目取極め状」なる証文が、東宮惇允家に残されています。
取極一札之事
一 苗ヶ島村之内字湯之沢、地借中店善九郎商売之儀ニ付、
地主東宮平左衛門方江及相談候得共、談事行届兼、
左之加印之者、善九郎より相頼地主方へ商筋可申入与
存候処、則加判之ョリ御取締前原与次兵衛様迄、内々
伺之上差図得、立入種々談判致候処、商筋相定熟談仕
候、為後日取極左ニ
中店定 餅屋定
一 酒 一 餅
一 煮さかな 一 鮓
一 うとん 一 梨子
一 茶漬け 一 つけ揚
一 わらし 一 栗
一 つけ揚 〆五品
一 煮染物 定書
〆 八品
豆腐屋定 前書之通り、御取締様御内意以祖定、・
一 豆腐 仰・・・・・
一 油揚 奉・・・・(文章略す)・
一 つけ揚 然・・・・・
一 菓子
一 蒟蒻 但シ煮売 明治二巳巳年六月日
一 唐茄子 同断
〆六品 二之宮村餅屋
店子
茂三郎
苗ケ島村豆腐
店子
市平
同
地借
善九郎
大分簡略して書かせて貰いましたが、「餅屋」の先祖は二之宮村の茂三郎さんと言う方みたいですね。明治2年当時は二之宮村に住んでいたらしい事が分かります。さて商い品目の「鮓」と言う字??分かりますか??「すし」と言う字だそうです、知りませんでした。餅や寿司を売っていたんですね!!
さて、豆腐屋の市平さんちですが…その子孫の一人が苗ヶ島で食い物やをやっているんですよ!!…どこんち何んでしょうかね??
ウッ・フッ・フゥ???? 多分、子孫も知らない筈…137年も経つと知ってる人は、誰れも居ねえんですかね…。
餅屋んちもまさか、苗ヶ島で最初の寿司屋を開店していたとは…オシャカ様でも知らね事があるんですね…。
8月、地域審議会が開かれるとの事で宮城支所へ。今日の会議は、今度建設される支所の建設規模の説明であった。終了後、元村長の桜井敏道さんが、「あっちゃん、金剛寺の志田先生が用事がある…と! 何んでも、檀家の方が東宮鉄男大佐のパスポートを持って来たらしい??」との話をされた。さっそく帰路金剛寺に寄る。住職は不在であったが住職夫人が対応して下さった。
出て来たのは、「蘭友」のアルバム帳とパスポート??これは、精巧??に出来た??カラーコピー??印刷??であったが珍し物である。この蘭友のアルバムは、当家にも保存されているが、何んでも、新里の小倉さんと言う檀家の方から持ち込まれたとの事。おじいさんの遺品の中から出て来たらしいが、若い人は持っていても仕方がない。もし、お寺様で処分をして下されば、との事らしい。ご住職夫人にパスポートの方をお借り出来ないかとお願いしたら、快く了解して下さった。
このパスポートは、東宮鉄男が広東留学の時使用した物である。何時、何処で、これが流失したものか??あるいはどなたかに差し上げた物なのか??少し興味が湧いて来た。しかし、何時どなたが印刷して流布させたか??ちょっぴり知りたい気分…。しかし、所有していた小倉さんは既に鬼籍に…。何れにしても、蘭友のアルバムを所持していたと言う事は、昭和10年前後に満州国に滞在していたはず??でなければ…多分、移民関係の人??か。と言うのは、蘭友のアルバムに加藤完治先生の写真が貼ってありましたので。
最近よく、戦争当時のアルバムが捨てられているのを見かける事がある。それらのアルバムは、きっと所有者の男性が妻子の次ぎに大切に、肌身離さず持っていた物…。戦地に駆り出され、明日の命も分からない極限状態の中で、頼りは戦友…強い絆で結ばれた戦友達との思い出のアルバム…。しかし、時が過ぎ、時代が変わり、汚いジジーの遺品はゴミに…。仕方が無い事なんでしょうけれど、そこに映っている姿は若々し20代の姿…捨てる人と同じ年齢…誰にも老いが…きっと貴方もその様な時が来る…。
《テレビ番組のお知らせ》
NHK BSハイビジョンで、ハイビジョン特集「満蒙開拓団はこうして送られた~“開拓の父”東宮大佐の満州日記」が放送されます。
放送日 :9月13日(水)
放送時間 :午後9:00~午後10:50
この道祖神は美しい!!何と表現して良いか…。
造立されたのは寛政五年(1793)の八月である。この年は地震が多発…やはり不安な年であったのか?? 村の結界に立ち、悪霊を防ごうと必死だったのかも??男性が柔和な表情で、女性に「安心しな!!っと」優しく語りかける様に、相手を包容している姿が、何とも微笑ましく見え、見る人の心を和ませる。苗ヶ島の路傍で、213年余りの歳月を過ごしていたと、誰が信じ様か!!。今でも現代人の我々の心に、深い感銘を与えてくれるお姿である。
寛政5年と言う年は、勤皇の志士高山彦九郎が自刃した年でもある。20年ほど前の安永2年(1773年)、彼は苗ヶ島村の東宮佐次右衛門方に泊まっている。
金剛寺と同じ「お高祖頭巾」を被った道祖神は県内に数基しか無い。その中で、宮城地内に二基、鼻毛石の「お帰り道祖神」がそれである。その他、粕川町月田に相合傘を差した姿の道祖神がある。これは、向かって右側の男性が、お高祖頭巾を被っていない。金剛寺より少し前の寛政元年2月作である。右側に天下泰平国土安穏と刻んである。天明の飢饉が過ぎ、2年前から松平定信の寛政の改革が始まるその時である。皆、天下泰平を願ったのであろう。その他、粕川町室沢の全徳寺に明和3年(1766年)7月銘のがある。これは、何か深く抱き合い真に迫っている…??姿に感じられる。互いの肩に掛かっている手に力が籠もっている様な…。この明和と言う年も、決して安寧な年では無かった様である。明和元年には秩父で百姓一揆が起きたり、前橋城下で大火が起き、600戸余が消失すると言う騒然とした時代であったと言う。金剛寺の石仏が造立された27年前である。
苗ヶ島の名門「上野家」は北爪の息子が創姓した。
苗ヶ島の上野家は宮城村長を歴任した、上野丑之助(故人)家が宗家である。
家伝に曰く、北爪権左衛門の男なりと、この方、小林村、上野氏に養子に入ったが、暫くして兄弟が出来た。その後。養父母が死んでしまったが、兄弟仲良く一緒に生活していた。ある時、兄弟共に不思議な夢を見たと…。為に江戸に出て合羽商を営み大成す。公家及び酒井雅楽頭公の御用商人となり苗字帯刀を許され、姓を上野に改めると…。後に、店を妻と弟に委ね、帰郷。この地に宗家北爪の娘を養女とし婿を迎え、上野家を興したと。
しかし、夢を見て江戸へ出て、大成するであろうか、不可能であろう。しかし、事実、上野文右衛門は巨額の金を持参し、上野家を興している。東宮惇允家に伝わる「享保12年(1727年)苗ヶ島村五人組帳」に、その糸口が記載されていた。
家伝は言い伝えであるが、この五人組帳は正式なる役所控え・戸籍台帳である。此処に、権左衛門家の家族構成が書かれ、付記が添付されていた。「此の権左衛門弟長助江戸大伝馬町伊勢屋七郎右衛門養子に仲立ち武井村藤右衛門…」と、当時、兄の権左衛門41歳、彼の妻が武井村(新里村)藤右衛門の娘である。彼女の父親が養子縁組の仲立ちをしたのである。長助こと文右衛門はこの時26歳であった。彼には24歳の六之助と言う弟がいた。又、長兄、権左衛門には宇之助16歳、伊之助7歳になる子供がいた。六年前の享保7年には、その下に「ふつ」と言う14歳の娘が居たが嫁に行ったのか、此の時点では記載されていない。さて、話は戻るが…と言う事は、江戸大伝馬町の伊勢屋と言う店に、養子に入ったと言う事であり、彼が徒手空拳で開業した事では無い。しかし、彼がその店を繁盛させたのであろう事は想像に難くない。金剛寺の過去帳の中に、享保六年、江戸大伝馬町上野七郎右衛門の戒名が記載されている。恐らく、伊勢屋の姓名は上野であって、後に、金剛寺で先祖供養をしたものであろう。
宝暦6年(1756年)6月10日、初代婿(二代)、新六卒。
明和7年(1770年)4月9日、初代文右衛門卒81歳。
安永7年(1788年)6月5日、初代婿(三代)浅七(浅右衛門と称す)卒54歳。
安永7年、上野文右衛門、菩提寺金剛寺に唐銅四足具五個寄進。
天明7年(1787年)上野文右衛門、菩提寺金剛寺に唐銅灯籠一対寄進。
天保2年(1831年)四代文右衛門卒80歳。
その他、文右衛門の財力を示す証が三夜沢の奈良原年代記の中に記載されている。
「寛政9年丁巳(1797年) 今年鳥居建立始願主苗ヶ嶋村上野文右衛門笠木七月廿伐西宮鳥居前大弐丈四尺回り願主買収代金ハ出雲取ル代金三両二分東柱ハ我家敷ノ後ニテ伐九尺八寸回リ西柱ハ奈良原屋ニテ伐九尺五寸回同八月十九日柱立細工始ノ祝作料金八両米七俵ニ渡大工横沢村井上山城墨違シカ笠木ヲ上エ掘ヌク西ノ柱ナリ」
初代は、弟、定右衛門の娘を養女とし上野家を興す。最初の婿は一子を残し亡くなる。
次の婿「浅七」は残された子に上野宗家を継がしめ、実子二人を前に分家す。
これが、前の分家、西の分家の祖である。前の分家からは儒学者、上野南渓を輩出。
西の分家からは教育者、上野福松を輩出している。無論、宗家からは上野丑之助が出ている。この血脈の祖は北爪である。苗ヶ島、北爪の祖は文禄の頃、この地に移ったと伝えられていると言う。多分、女淵衆の構成員では無かったんだろうか?? 既にそれを知る術はない。しかし、北爪宗家の墓地は暗にそれを示している。権左衛門宗家は幕末廃絶している。しかし、一族から血を入れ、現在まで脈々とその系譜を保っている。
[丸山の碑]
この石碑は、国津神の一つ猿田彦を祀った記念碑で、選文・文筆共に上野南渓と伝えられている。(文政2年(1819年)建立)