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2006年09月05日

●よもやま話「上野」

 苗ヶ島の名門「上野家」は北爪の息子が創姓した。
 苗ヶ島の上野家は宮城村長を歴任した、上野丑之助(故人)家が宗家である。
 家伝に曰く、北爪権左衛門の男なりと、この方、小林村、上野氏に養子に入ったが、暫くして兄弟が出来た。その後。養父母が死んでしまったが、兄弟仲良く一緒に生活していた。ある時、兄弟共に不思議な夢を見たと…。為に江戸に出て合羽商を営み大成す。公家及び酒井雅楽頭公の御用商人となり苗字帯刀を許され、姓を上野に改めると…。後に、店を妻と弟に委ね、帰郷。この地に宗家北爪の娘を養女とし婿を迎え、上野家を興したと。
 しかし、夢を見て江戸へ出て、大成するであろうか、不可能であろう。しかし、事実、上野文右衛門は巨額の金を持参し、上野家を興している。東宮惇允家に伝わる「享保12年(1727年)苗ヶ島村五人組帳」に、その糸口が記載されていた。
 家伝は言い伝えであるが、この五人組帳は正式なる役所控え・戸籍台帳である。此処に、権左衛門家の家族構成が書かれ、付記が添付されていた。「此の権左衛門弟長助江戸大伝馬町伊勢屋七郎右衛門養子に仲立ち武井村藤右衛門…」と、当時、兄の権左衛門41歳、彼の妻が武井村(新里村)藤右衛門の娘である。彼女の父親が養子縁組の仲立ちをしたのである。長助こと文右衛門はこの時26歳であった。彼には24歳の六之助と言う弟がいた。又、長兄、権左衛門には宇之助16歳、伊之助7歳になる子供がいた。六年前の享保7年には、その下に「ふつ」と言う14歳の娘が居たが嫁に行ったのか、此の時点では記載されていない。さて、話は戻るが…と言う事は、江戸大伝馬町の伊勢屋と言う店に、養子に入ったと言う事であり、彼が徒手空拳で開業した事では無い。しかし、彼がその店を繁盛させたのであろう事は想像に難くない。金剛寺の過去帳の中に、享保六年、江戸大伝馬町上野七郎右衛門の戒名が記載されている。恐らく、伊勢屋の姓名は上野であって、後に、金剛寺で先祖供養をしたものであろう。

宝暦6年(1756年)6月10日、初代婿(二代)、新六卒。
明和7年(1770年)4月9日、初代文右衛門卒81歳。
安永7年(1788年)6月5日、初代婿(三代)浅七(浅右衛門と称す)卒54歳。
安永7年、上野文右衛門、菩提寺金剛寺に唐銅四足具五個寄進。
天明7年(1787年)上野文右衛門、菩提寺金剛寺に唐銅灯籠一対寄進。
天保2年(1831年)四代文右衛門卒80歳。

 その他、文右衛門の財力を示す証が三夜沢の奈良原年代記の中に記載されている。

「寛政9年丁巳(1797年) 今年鳥居建立始願主苗ヶ嶋村上野文右衛門笠木七月廿伐西宮鳥居前大弐丈四尺回り願主買収代金ハ出雲取ル代金三両二分東柱ハ我家敷ノ後ニテ伐九尺八寸回リ西柱ハ奈良原屋ニテ伐九尺五寸回同八月十九日柱立細工始ノ祝作料金八両米七俵ニ渡大工横沢村井上山城墨違シカ笠木ヲ上エ掘ヌク西ノ柱ナリ」

 初代は、弟、定右衛門の娘を養女とし上野家を興す。最初の婿は一子を残し亡くなる。
 次の婿「浅七」は残された子に上野宗家を継がしめ、実子二人を前に分家す。
 これが、前の分家、西の分家の祖である。前の分家からは儒学者、上野南渓を輩出。
 西の分家からは教育者、上野福松を輩出している。無論、宗家からは上野丑之助が出ている。この血脈の祖は北爪である。苗ヶ島、北爪の祖は文禄の頃、この地に移ったと伝えられていると言う。多分、女淵衆の構成員では無かったんだろうか?? 既にそれを知る術はない。しかし、北爪宗家の墓地は暗にそれを示している。権左衛門宗家は幕末廃絶している。しかし、一族から血を入れ、現在まで脈々とその系譜を保っている。

[丸山の碑]
 この石碑は、国津神の一つ猿田彦を祀った記念碑で、選文・文筆共に上野南渓と伝えられている。(文政2年(1819年)建立)
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