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2006年05月31日

●よもやま話「「赤城塔」新たに発見!!」

 やはり、私に見付けて欲しい??との「赤城門徒」からの伝言か??600〜700年の時空を超えてのお願いが…そんな実感が益々…肌身に…!
 今日も文化財の巡視のため大前田方面へ、大前田栄五郎の墓・お地蔵様・世良田薬師堂を巡回。途中、内出の阿久沢家墓地へ立寄りましたら裏の星野家墓地の方に赤城塔の塔身が…ありました。阿久沢家・星野家・萩原家の墓地に成っておりますが、一番上部に素晴らし五輪が…安永年期のお坊主様の墓石…多分ここにはお寺があった様な感じが…。良く調べようとしましたら、笠の部分に蜂の巣があり、残念ながら見られませんでした。
 その他、鼻毛石町の赤城寺にも塔身部分がありました。滝沢渓谷で発見された「相輪」の類似品に関しては、苗ケ島町の金剛寺にある赤城塔の相輪が似ております。残念ながら、上部が欠落しておりますが間違いないと確信出来ます。この相輪部分は今迄、塔身と違う物と考えられておりましたが、この赤城塔の相輪と思います。
 その他、世良田薬師境内にある「赤城塔」の相輪が似ております。この相輪も最上部が欠落しておりますが、間違いないと確信しております。
 いずれにいたしても、「赤城門徒」に辿り着く程の、在地の土豪の墓地や寺院跡…、柏倉町の阿久沢家墓地・苗ケ島町の井上家墓地・大前田町の阿久沢家墓地・鼻毛石町の北爪家関連地、等々で、皆、戦国期、この地方で活躍した人達の子孫です。これ等の人達の先祖が「赤城門徒」であった事は想像…間違いないでしょう!!。
 新たな発見を期待しながら、今後もその辺をウロウロと、探し回りたいと思いますので、怪しまず、ご協力の程、宜敷お願いいたします。

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2006年05月30日

●大胡ぐりーんふらわー牧場のシャクヤク

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[平成18年5月30日 撮影]

大胡ぐりーんふらわー牧場のシャクヤクが見頃となってきています。

[お問い合わせ先]
  前橋市大胡支所産業課 027-283-1111(代)

2006年05月28日

●どんぐりの森

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 どんぐりの森では、5月28日(日)に、どんぐりの森を育てる会による下草刈り作業が行われました。
 荒砥川遊歩道、そして、どんぐりの森で自然を満喫してみては!

どんぐりの森案内マップ

2006年05月27日

●赤城山の花々

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 今、赤城山南面の道路沿いの、崖や石垣の間から飛び出る様に、純白の小さな花が満開に咲いている。
 「ウツギ」の花である。漢字では「空木」と書くと言う。この花は、万葉の昔から、人々に愛されたと伝えられている。

情報提供:御宿 総本家 館主

●よもやま話「田植の話」

 よもやま話を書き出して早一年…永い??…まあ殆どが、今年に入ってから…である。先日、市の担当者の某氏が、1年分を取りまとめ、冊子にしてきて下さった。原稿が無いのでウレシヤ・うれしや、である。
 よもやま話の最初の項が「田植」の話であった。すでに何を書いたのか忘れていました。なので、そろそろ田植の時期が近づいて来ているので…、田植に関しての関連話を書いて見ようかと…。
 5月5日には、「田の神様」を祭るため、朝飯前に田の畦に田の神様の藁宮を作り、赤飯やオミキスズに酒を入れ供えた(柏倉町)。勿論、どこでも同じ様な事をやっていたが…最近はついぞ見かけなくなってしまった。もう、忘れ去られた過去の行事に…残念であります。
 そして、6月の辰の日には田植はしない。どこにでも伝えられている俗信??であるかも??。柏倉町に伝えられている話でも、辰の日に植えられた米は「死に米」になるとか、「タツ頭ののり」になるとかと、伝えられていた。だから、どこの農家でも田植をしなかった。そこで、柏倉のお寺の和尚さんは、お寺の田植を手伝わせたと…伝えられている。この話、他村でも聞いた事が…!頭の良い、お坊主の知恵は流石…見事でありますなあ!!南無阿弥陀仏・なむあみだぶつ。
 その他、半夏には田植をしない…半夏とは?? 7月2日の事である。半夏の日には、ハンゲ様が半分田に足を入れ、半分畑に足を入れ、立往生したので田植をしない(大前田町)とか、ハンゲ様が手鍬を持って立往生したとか、色々な伝承があります。
 半夏(7月2日)までに田植を終える目標を立て、この日を農休みとする…慰労の意味も含まれているので、どんなに忙しくても、この日は休んだらしい。

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2006年05月25日

●よもやま話「桑の木」

 今から25年位前までは、畑の全てと言って良いほど、何処を見渡しても、管理された桑畑ばかりだった。もうそんな風景は何処にも無い!!と言っても過言ではない。
 あるのは、ボウボウに伸び放題になった桑の木が、無様な姿で立っている??…生えている??って言う感じである。
 江戸時代、養蚕がこの地方に取り入れられ…??もっと古い時代から、この毛の国には養蚕文化があっただろうが、本格的に流行したのは、江戸中期からであろう。
 家の造りも、養蚕文化が入る前の建物(阿久沢家住宅)と、それ以降の建物では違う。多くの蚕を飼う為に、家の造りも、この地方独特の「赤城型民家」と言う形が取り入れられて行った。この形式の家も養蚕文化の衰退と時を同じく、消え去ってしまった。
 利根沼田地方などに、数百年を経た桑の大木があると言う。そうそう、阪東橋を渡り、渋川の市街地に入る辺り、JRの踏切手前に、桑の大木があった。
 今、残された桑園跡の桑の中から、数百年後迄、生き延びる木があるだろうか??
 残って、後世の人々に語り伝えて欲しい…素晴らしい養蚕文化があった事を!!。
 今から35年位前に、アメリカ・ロサンゼルスの街路樹の中で「ドドメ」の実に似た、黒い実をたわわに実らせた大木を見つけた事があった。葉を見たら、桑の葉そのものであったので、摘まんで食べたら甘酸っぱい「ドドメ」その物の味であった。
 土地の歴史に詳しい人に尋ねたら、開拓時代に養蚕をする為に、移住者が持ち込んだ木であるとの回答であった。
 桑の学名は「Morus alba」と、山桑は「Morus bombcis」と言うらしい。Morusとは桑のドドメ色の黒を指すそうだ。bombcisとは、絹とか、蚕の事を指す様だ。イギリス辺りの移住者が持ち込んだのであろう…。
 古代中国でも、桑の木は神の木として、崇めた人々がいたと言う。
 一本でも良い…永遠に生き残って欲しい。

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2006年05月23日

●よもやま話「細萱峠」

 赤城山のレンゲツツジ(馬ツツジ・)のシーズンになると、土日には多くのマイカーや登山客で賑わいます。
 小沼から赤城温泉方面へ下りて来ると、旧宮城村時代に建設された展望台があります。
 そこを少し下った所に、ドコモ中継基地局の施設があります。その辺りが標高1000メートルです。
 それから少し下った辺りを「細萱峠(ほそがやとうげ)」と言います。昔、この辺りで「萱(カヤ)」(屋根材に使用)を刈り取っていたそうですが、太いカヤは高地なので生えません。そこから、この名が付いたそうです。
 そこをちょっと下ったあたりから、「滝沢不動尊」に下りる道がありますが、この道の途中には「三宝堂(さんぽうどう)」があります。このあたりが「金剛寺」の旧跡地で、現在も金剛寺の所有地になっています。

[展望台]
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[ドコモ中継基地局付近]
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2006年05月22日

●よもやま話「真言宗・赤城寺…は真言宗だったのか??」

 鼻毛石町字鼻石に、この寺はある。
 村史によると、
一、名称・八幡山 薬師院 赤城寺 新義真言宗豊山……(略)、
一、本尊 大日如来(金剛界) 薬師如来(火災のため現在なし) 仏像 両大師 十一面観音 
一、由緒 元赤城山宿の平(現忠治温泉・赤城塔あり)にあり石上寺と称する。元和8年円清上人の開基。
(詳細は村史を見て下さい。)

 何故、「せきじょうじ」と言うか??
 旧跡地に何故、赤城塔があるのか??
 赤城了需が天童山で、師(長楽寺・月船和尚)の十三回忌を雲外に依頼し、行った4年後…。大前田・世良田薬師と赤城寺の関係は今でも深い関係を保っている。薬師様の境内にある「宝塔」の一つ…塔身が太鼓の胴状の物…赤城塔??と称する人もいるが、上部にくびれ…首部が無い。この塔と同一の宝塔が、赤城寺にある。
 赤城寺に何故、赤城塔が無い??今回調査したら…ありました!!赤城塔の塔身部分が…間違いありません。その他の部分はありませんが、ただ、塔身の四方に削られた様な傷が??
 赤城了需(せきじょう・りょうじゅう)との関係??間違いなく、了需死後の赤城門徒との関係を如実に…。
 であるならば、赤城寺が旧跡地で開基された頃は「天台宗」であった筈…。

 あの相輪が舞い込んでから、霞の向こうから…数百年の歳月を超して、赤城門徒の人々の声がきこえて来るような!!
 世に出して呉れ!!と…。

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2006年05月21日

●今日の赤城山

 5月21日(日)、久しぶりの5月晴れで、赤城山がとてもきれいでしたので、各町から見える赤城山をお伝えいたします。

[鼻毛石町]
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[柏倉町]
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[市之関町]
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[苗ヶ島町]
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[大前田町]
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●赤城神社参道松並木ツツジ群

 今年も松並木の緑にツツジの花の赤が彩り、私たちを楽しませてくれた赤城神社参道松並木のツツジの花も散り終わりました。
 また来年をお楽しみに!!

[平成18年5月21日 撮影]
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2006年05月20日

●よもやま話「松野自得先生」

 赤城山も新緑に覆われる頃となって来た。嗚呼…やっと春だ〜っと実感できる。山から緑色が消えて何んと久しい事か…。
 「人の一生いつも木乃芽のふ久よう」と書かれた、俳句の額が我が家に飾られている。この時期、この額を見ていると、人の一生と言うものが実感出来るような気がする。しかし、どんなに栄耀栄華を誇った「ソロモン王」(ソロモン王の財宝??の話、聞いたこ事ありません??)でさえ、咲き誇る花には及ばないと…咲けば散る…が、花は翌年また可憐な花を付け咲き誇る…が、人の一生はそれで終ってしまう。人の一生は一代限り…、だから、不老不死の妙薬を求めるのですかね!!
 人は、いまわの際に大金をはたいて、効果に疑問のある妙薬を買う??今も昔も、変わらない…。散り際の哀れさよりも、芽吹きのすがすがの方が何んと美しい事か…。
 先日、仲人っ子の子が、生まれたての赤ん坊(曾孫?)を見せに来たが、本当に、「若芽の様…」。キリスト教の聖書の中にも、赤ん坊だけが神の国に入れると、書かれているが、正にその通りであろう。
 そうそう、俳句の作者…松野自得先生作である。先生は、東大室町の最善寺の住職であった。寺の入り口に「御仏は大地におわす八重桜 自得」と書かれた大きな句碑が建っているので、すぐにわかると思う。
 先生は、その寺で生まれ、美術を志し現在の芸大で学ばれ、帝展入選を果たしている。また、高浜虚子に認められ、俳句の道に入られました。そして、「さいかち」と言う会を作ります。その門下生が苗ケ島・上野赤峰(丑之助)、苗ヶ島・井上湖子(良男)、大前田・磯田政八、大前田出身・星野灯城(秀雄)等々の方々です。先生は、昭和50年、85才で亡くなられておられます。
 先生は、門下生の方々と良く、赤城温泉・御宿 総本家で句会を開いておりました。そんな関係で、先生が書かれたものが、この地区内の関係者の家に残されているのです。先生の書かれた絵や書は、好事家の間では、現在も、高い評価を受けて居ります。

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2006年05月19日

●よもやま話「阿久沢家住宅の屋根」

 国指定重要文化財「阿久沢家住宅」の屋根の上に、綺麗なアヤメの花が咲き始めました。筆者の子供の頃は、あちこちで見慣れた普通の風景であります。
 そんなアヤメの咲く家が欲しくて、欲しくて…しかし、我が家の屋根は瓦屋根…。平成16年12月、子供の頃の願望を叶えるべく、自分で、アヤメの咲く屋根の門を造りました。クズ(カヤ葺き)屋根ではありませんが…。きっと、今年も花を咲かせる事でしょう。
 さて何故アヤメの花が、屋根のグシに咲くの??良く阿久沢家住宅の案内をいたしますが、多くの方が、種が飛んで来たの??との質問が…そう思っている人の方が多いです。しかし、アヤメは球根ですから、人の手でなければ無理なんです。
 屋根のグシ押さえ、等々の理由があります。芝棟(シバグシ)と言い、芝を植えたり、イワヒバ(岩松)、イチハツ、ヤブカンゾウ等を植えます。水上町方面では、ノカンゾウが、吾妻方面では、アマドコロ等が植えられております。
 屋根の棟に芝や草花が植えられているのは日本だけではありません。イギリスやヨーロッパの国々でも良く見かけます。数年前にも、朝日新聞にアイリスが満開に咲いている、草葺き屋根の写真が掲載されていました。
 屋根の葺き方にも色々な流派があるそうです。「越後流」は、北毛・西毛・中毛。「会津流」は、利根地域。「筑波流」は、東毛方面との事。各地の有名流派は、「甲州流」・「紀州流」・「芸州流」・「野州流」等々があったとか…。
 萱葺屋根の耐用年数は??日当たり良好で約50年、裏側は25〜30年。麦ワラ葺きは、表、10年、裏5年位との事です。
 ちなみに、阿久沢家住宅は誰も住んでいないので、既に、平成8年に葺き替えられています。その時の費用は、1600万円です。(岐阜県・田中社寺株式会社施工)

阿久沢家住宅案内マップ

朝日新聞記事

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[平成18年5月18日 撮影]

2006年05月18日

●赤城山の花々

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 標高860m、赤城温泉・御宿 総本家の露天風呂脇で「アケビの花」が満開に咲いております。
 花が放つ芳香は甘ったるく、強烈な臭いが…誰かを誘い込む様な甘美な…??
 楊貴妃が甘い声で囁く…誰でも罠にかかってしまいそうな感じがし、一時…うっとりと…この誘惑に負ける訳には……そんな感じがいたしました。

情報提供:御宿 総本家 館主

●「東宮鉄男」の取材

 5月17日、NHKの撮影隊が、苗ケ島町の東宮家に来ました。藏に入り、中に所蔵されていた、今から70〜80年前の書類の撮影??、何んの!!  市の文化財に指定されている「東宮鉄男大佐の墓」に関係…??
 勿論、お墓も撮影いたしました。「偽満州国」と中国で呼ばれている、当時の関係資料が、東宮家に保管されております。特に、満州移民関連資料が多く保管されており、今回、NHKは、「満州国とは何んだった…」と言う様なドキュメンタリー番組を制作すると言う事で、取材協力をしたしだい…らしいです。
 何んだか、貴重な資料も今回初めて発見されたらしいです…!
 8月11日??の放送予定だそうです。担当プロデュウサーの話では、これから中国に行き撮影をするそうです。放送日が確定したらお知らせいたします。

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2006年05月17日

●松並木クリーン大作戦

 参道松並木を守る会では、毎年実施している清掃活動「松並木クリーン大作戦」を、今年も次のとおり実施いたします。
 大勢の皆様のご参加をお待ちしております。

 当日は、共催の群馬中央地区緑化推進委員会より、先着190名に“オオムラサキツツジ”の苗木の配布があります。

■日 時:平成18年5月21日(日) 朝7時~ 2時間程度

■集合場所:宮城平 国道353号線三夜沢町信号


松並木クリーン大作戦チラシPDFファイル

2006年05月16日

●「とんとんクラブ 農業体験」のお知らせ

第2回「とんとん広場」食育イベント
ー 田植え&新ジャガイモ掘り体験 ー
 日時:6月18日(日) 9:00〜14:00
 会場:とんとん広場(前橋市三夜沢町)

【実施内容】
 自然に触れて、大地の恵みに感謝する大好評の食育イベント第2弾です。
 田植え&新ジャガイモ掘りを通して、農業を楽しく体験しながら旬の味覚を堪能できる食農学習に家族や友達同士でご参加ください。
 当日は、赤城南麓で採れた新鮮野菜の朝市も開催します。

 ■参加料:大人1,200円 子供600円(旬の食材を使ったランチ付お土産付き)
 ■申込:TELまたはFAX、メールで

[問い合わせ先]
手づくりふれあい農園とんとん広場
 TEL.027-283-2983
 FAX.027-283-2980

http://www.fukubuta.co.jp/
とんとん広場案内マップ

2006年05月15日

●よもやま話「楫取県令と斉藤多須久」

 群馬県の初代県令、楫取素彦は安政の大獄で刑死した吉田松陰の門下生であった。松陰は尊皇の大義を唱え国事に奔走、また、松下村塾を開き多くの逸材を輩出した事で知られている。正に、その門下生により、明治維新が引き起こされたと言っても過言ではない。
 その門下生の中に、久坂玄瑞(くさか・げんずい)と言う、秀でた若者がいた。特に松陰に期待を掛けられ、松陰の妹を妻に迎える。彼は又、高山彦九郎に心酔、彼の自刃の地(九州)に赴き墓参をしたり、彦九郎の出身地である上州・新田までも来ている。禁門の変で負傷後、友と自刃している。25歳と言う若さであったと…。
 後にその未亡人・文と楫取は再婚している。文は後年、美和と称していた。東宮七男は美和と楫取県令が二人で湯の沢(赤城温泉)に逗留したとの記事を書いているが、事実では無い。県令が来湯した理由は他にあった。その理由は後日としたい。
 県令の高山彦九郎に対しての思いは特別な物があったと…特に当時の尊皇の志士にとって…。
 斉藤多須久が高山彦九郎神社を太田に建設する訳だが、正にそこには、初代県令と多須久の関係を如実に表していると言っても過言では無い。赤城登山も当時の紛擾事件解決の為であり、この地区に足を踏み入れているのも、斉藤多須久が仲介の労をとっているからである。

2006年05月14日

●赤城神社参道松並木ツツジ群

 ツツジの花が見頃を迎えた赤城神社参道松並木の5月14日(日)の様子です。
 並木内ではたくさんの人がツツジの花を楽しんでいました。

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[国道353号線から赤城神社までの並木内を散策する場合、下記の無料駐車場をご利用ください]
参道松並木北無料駐車場案内マップ

問い合わせ先
前橋市宮城支所 地域振興課
電話 027-283-2131

●空っ風街道つつじまつり

 ツツジの花が見頃となっている赤城神社参道松並木で、5月13日(土)、14日(日)の両日、(財)前橋観光コンベンション協会宮城支部主催の「空っ風街道つつじまつり」が開催されました。
 14日(日)は、前日の雨も上がった快晴の中、参道松並木内でスタンプラリーが行われました。また、主会場では宮城地区の新鮮な野菜などの特産販売も行われました。

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2006年05月13日

●赤城山の花々

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赤・白・黄色・どの花みても!!若芽の芽吹きを、待ちきれない様に咲き出した、色々な花々…。
紫のツツジ、黄色い山吹、白いズミの花、オレンジ色の山ツツジ、紫色のアケビの花…全山…花に覆われ出しました。
参道松並木のツツジを見ながら、赤城温泉方面にも足を伸ばして下さい。

情報提供:御宿 総本家 館主

2006年05月11日

●よもやま話「赤城塔」

 最近、私の友人が夫婦で滝沢峡谷へ行った帰りに立ち寄り、「土産だ!!」と言って石片??を持って来た。
 彼曰く、誰かが捨てたのでは??…と、あんたが好きそうな物なので、重かったが、リックに入れて持って来た!!っとの事。良く見ると、多宝塔の相輪部分??
 「こんなの、捨てに来る奴は居ねえよ!!」多分、昨年夏の水害で、山が崩れ、出た物だろう…との見解を…??。
 時代的には鎌倉時代位迄遡れる物??と考察。私的見解では、赤城塔の相輪部分??かもね…。その後、その辺に置きっ放し…、過日、高崎市教育委員会・文化財担当の方が来訪した折に、顔見せ…。これは、全然風化して居ませんね!!多分、地中に埋まって居たのでは…との見解でした。
 そんな事で、赤城塔に、より一層の興味が湧き…ここ数日、この地区の赤城塔巡りを始めています。新たな発見も…、出始めております。赤城了需を師とした、赤城門徒が造立したものであろうと考えられて居りますので、私のライフワークには最適の課題かも…。相輪が届いたのは、屹度、私に何かを訴えたかったのかも知れませんですし…。それから、この地区に残る「赤城塔」の相輪部分は、殆ど欠落しております。
 しかし、赤城神社境内にある、市指定文化財の「赤城塔」は、相輪が綺麗な形をしております。私の手元にある、相輪と宝珠下の部分に類似が認められました。
 神社の相輪には九輪の線刻がなされておりますが、当方の物にはありませんが。何れに致しましても、今後、暇を作り、頑張って研究??して見たいと思います。

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2006年05月10日

●研究所公開のお知らせ

(財)電力中央研究所赤城試験センターでは、次のとおり研究所を公開いたします。
前橋産のトラフグを見に行こう!!

■日時:平成18年5月21日(日) 10時〜15時30分(ご入場は15時まで)
■場所:前橋市苗ヶ島町2567 電話 027-283-2721
■入場無料
■主な内容
 ・設備の公開(魚工場・野菜工場ほか)
 ・トラフグ養殖説明会
 ・雷の実験 ほか
■イベント
 ・ふれあい動物園
 ・エネルギー工作教室
 ・地震体験コーナー
 ・和太鼓、八木節、ジャズ、アンデス音楽 ほか
 ・宮城地区特産物販売、福祉ボランティアふれんどバザー、若葉養護学校生徒作品販売コーナー

[問い合わせ先]
 (財)電力中央研究所赤城試験センター 電話 027-283-2721
 http://criepi.denken.or.jp/

2006年05月09日

●よもやま話「北爪将監」

 鼻毛石町の赤城寺境内に、市指定文化財「北爪将監供養塔(きたづめしょうげんくようとう)」と言うのがある。
 将監は戦国時代に、この地方で活躍した、在地の武将であった。将監は、大蔵(木瀬・下増田)、甚内(新田・世良田・平塚新田)、新八郎(埼玉・大里郡三尻・新堀新田)、式部の5人兄弟の長兄であったとの記録がある。
 鼻毛石・北爪家の紋所は、表紋が「丸の中に矢ちがいに十六弁の菊」、裏紋は「三つ巴」である。菩提寺は同所の「赤城寺」である。埼玉・三尻の北爪家の紋所は、「太丸に三つ鱗」で菩提寺は熊谷市玉井の大正寺である。北爪両家(鼻毛石・三尻)には多くの中世文書が残されていて、当時の活躍を知る事が出来る。しかし、今回は「よもやま話」として短編でお話をしたいので、詳細を知りたい方は後日に…と言う事で、ご了解を賜りたい。
 将監の父親は北爪助八と言う武将で、永禄6年に、勲功により館林の長尾氏より所領を与えられている。将監も山上城攻略戦に参陣し勲功を上げている。今回は鼻毛石の北爪一門に伝わる、名の由来伝承を…。
 昔・むかし・吉井公(?)が北陸征伐に行く途中、此の辺りに陣を張ったそうだ。その折り、何んとか家来にして欲しいと頼み込んだとの事。誓詞を書けとの事で、書こうとしたが、水が無い…困っていたら、神社の境内の大石に水溜まりが…その水で墨を摺り、誓詞を差し出したと…その大石が現在の「硯石」である。
 許され家来として参陣、北陸方面へ、それから京都御所警護へ。御所の門番を願い出たら、許され、北門の門番に…北門警備詰所に配属…「北に・詰め」たので「きた・つめ」から北爪へ、と言う訳で、この姓を朝廷から賜ったと。
 紋所については、弓矢のぶっちがえた下に、十六の菊の紋章が…。しかし、帝の紋章と同じ菊では申し訳ないと言う事で、菊の紋を改め、八重菊にしたとの言い伝えが残る。埼玉・北爪家の紋所は何故??「三つ鱗」、多分、北条家に仕えた関係で北条の紋所を拝領したのでは…。他にも類例がある。
 将監供養塔は、没後100年を記念して、子孫が造立したもので、近年、その地下から兜や骨の一部が出土したとの事。最近、大前田・北爪家の先祖調べをお手伝いする機会があり、墓地等を見させて頂きました。また、北爪宗家所蔵の系図(江戸期作成・下増田・北爪家系図)等を参考に調べました所、伊右衛門と言う者が、大前田に分かれた事が記載されておりました。また、その足跡が、世良田薬師の石(水鉢)に刻まれていました。
 なお、大前田・北爪家の菩提寺は苗ケ島の金剛寺であり、金剛寺に残された江戸初期の過去帳からも、一門の足跡を知る事が出来ました。

[北爪将監供養塔(鼻毛石町)]
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[八幡神社の硯石(鼻毛石町)]
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赤城寺案内マップ

2006年05月07日

●よもやま話「本家 赤城山」

 『中国・淅江省』東宮鉄男大佐が戦死した場所がそこである。そこに、天台県と言う所が…!そうです、赤城了需が今を去る680年余り前に留学した、天童山が…。「赤城山在天台県城西北7公里処、形如城堡、…石呈赤色、望之若霞、人称「赤城山」…」
 そうインターネットで調べたら、淅江大學のホームページに…天台県城西7Kの処、形状は城の様、山は赤い石山…人、赤城山と称せりと…。そこに赤城山がありました。また、赤城塔なる建造物も…赤城南麓の赤城塔は、群馬大学の尾崎先生(故人)が命名した物なので、名称はそんなに古くはありませんが…でも…不思議ですね!!鎌倉時代の建長3年に既に「吾妻鏡」の中で「赤木嶽焼く…」の記載があり、了需の生きた時代を更に100年も遡る頃に「赤城」の名が…。
 何んか、800〜900年以前の大陸文化…いや…現実には、苗ヶ島町の白山古墳から出土した遺物も、仏教伝来の足跡を色濃く残す物ですし、建長3年より更に、550年も遡る〜。もう、分からなくなってしまいました。
 しかし、中国の赤城山…きっと、本家の赤城山より古くからあるんでしょうね!!。何んせ、遙かに歴史の古い国ですから…名付親に聞いて見たいですね、どちらが本家か??パクリなのか??。交流村で懸賞金を出してみては如何!?

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2006年05月06日

●よもやま話「オコソ頭巾の双体道祖神」

 馬場町の信号を北上し苗ヶ島町に入り、左に苗ヶ島神社、右に霊松山金剛寺、更にドンドン北上すると道路は左右に分かれる。右端に滝沢不動の石灯籠がある。そこを右に北上すると、クローネンベルク方面へ(滝沢不動尊への街道)。左を北上すると、またすぐ道路は左右に分かれている。直進道路はすぐ電力中央研究所の正面入口付近でT字路に、左右は国道353である。
 さて、少し戻った三叉路付近へ…。右側を進むと、すぐ千本桜にたどり着く(赤城温泉方面、旧称、湯の沢街道)。左側はその辺りから、三夜沢・赤城神社への参道松並木の起点であり、片並木と称し、桐生・大間々方面からの赤城神社への参道となっていて、昭和40年代迄、松の大木がかなりあったが、既に、その痕跡はない。残念であるが仕方がない。
 分岐点の右側に古い道しるべの石柱がひっそりと立っている。片並木は電中研の敷地を横切る様に突っ切り北上、荒砥川の手洗橋へ、そこが苗ケ島との境である。橋を渡ると、三夜沢分になり、わずかで「一の鳥居」へ出る。そこで、大胡方面からの大門松並木に合流する。また荒砥川の苗ケ島側に戻ってもらうと、その境にあった「石造物」が村人の手により金剛寺に移されている。
 「オコソ頭巾の双対道祖神」等々である。道祖神は村に悪霊等が入り込まない様にと、村の結界(村境)に安置されていた石仏だそうです。私が友人から頂いた木像もネパールに伝わっていた同じ意味を持つ神様である事が分かりましたが、何処の国でも同じ事を念じるものなんですね!!。

[前橋市指定重要文化財 双体道祖神:苗ヶ島町金剛寺境内]
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金剛寺案内マップ

2006年05月05日

●三夜沢赤城神社太々神楽

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三夜沢赤城神社に伝わる太々神楽(市指定無形文化財)が、5月5日(金)、赤城神社例大祭で奉納されました。

問い合わせ先
赤城神社社務所
電話 027-283-1268

●赤城神社奉納武道大会

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 古来より著名な武道家が、その武術を奉納したと伝えられる赤城神社で、今年も5月5日(金)こどもの日に第19回赤城神社奉納武道大会が開催されました。
 ■会 場:赤城神社境内(前橋市三夜沢町)
 ■主 催:前橋東部商工会宮城支部
 ■後 援:赤城神社、赤城神社氏子総代会
     (財)前橋観光コンベンション協会宮城支部
      宮城剣道愛好会、修練塾

●よもやま話「赤城山中に眠る・「上毛及上毛人」の原稿」

 この郷土書を書したのは、旧大胡町・長善寺の住職であった豊国義考と言う方である。翁は慶応元年6月、多野郡日野村に生まれた。住職の子であったが、当時、僧籍にある者は妻帯が許されておらず、住職の妹の子として認知されたとの事を聞いた憶えがある。
 12歳頃得度、明治12年大胡町長善寺住職・豊国洞伝和尚に師事。明治19年、長善寺第26世の住職となる。明治32年6月、住職を隠退、還俗す。長善寺の財宝を売り払い、芸者遊びをした破壊坊主との噂も流れしが、師の残した足跡・功績は大である。その功績に依り、昭和29年1月、吉田茂内閣総理大臣より藍綬褒賞を賜っている。
 翁は板東日報発刊当時は高崎市に住み、後、前橋市に移る。戦時中は大胡町・長善寺の本堂前の建物に疎開。昭和29年2月、89歳の天寿を全うす。その夫人は翁を追う様に、一ヶ月後に他界す。青年期より晩年迄に残した記録・著書等は膨大である。
 実は、翁の娘は赤城山中で生涯を閉じている。そして、その孫、曾孫が翁の残した「上毛及上毛人」の原稿の一部を、祖母の遺品として大事に保管している。翁が記した全ての書籍等は、亡くなる前年の昭和28年、群馬県に寄贈されている。

2006年05月04日

●よもやま話「不思議な獅子頭」

 筆者の家に代々伝わる、一対の獅子頭があります。多分、200年以上、我が家に住みついて居るみたいです。
 一時、旧宮城村の改善センターの展示ケースに住んで居た事がありますが…。今は又、我が家に戻り、ギョロッとした目で何処かを睨んでおります。
 10年位前、在野の研究者がこの獅子を見て、「かって今まで見聞した獅子頭の中であれほど小生の獅子頭に対してのイメージにぴったりな物に出会ったことはありません。とくに関東における三匹獅子舞、そのほとんどが竜頭(たつがしら)系であり、本当の獅子頭といわれているものは皆無に等しく、あの獅子頭に出会えた時は震えがきました。立派とはまた一味違ったものですが、獅子頭らしい獅子頭に出会えたことに運命を感じます。…」とのお手紙を頂戴した事があります。
 先祖が黒川谷から移住して来て、既に400年、その時、帯同して来た守り本尊の獅子かも??今は知る術もありませんが…。
 この近在では、大前田町の獅子舞や粕川町月田のササラの獅子舞が有名です。苗ケ島町にも獅子舞が?それとも、守り本尊??

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[大前田の獅子舞]
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2006年05月01日

●よもやま話「赤城山・山開き」

 5月8日は赤城山の山開きである。しかし、この言葉も南麓一帯では死語に成りつつある。赤城山頂を抱える富士見村の関係者ぐらいしか知らなくなっているのではないだろうか??
 昭和40年位迄は、南麓一帯から赤城山頂を目指し、登山する人々が如何に多かったか!!
 湯の沢温泉(現赤城温泉)の御宿 総本家の玄関前から大洞(山頂)に通じる道があった。この日は、早朝、暗い内から既に登山者が、引きも切らずに大洞に向け歩いていたのを覚えている。
 里の人々は、この日を楽しみに待っていた。丁度、この頃が、農休み…と言うところであり、また、山も新緑が美しい頃でもある。しかし、40年頃から、段々と農家の人々も、工場や建設現場に出稼ぎに出る様になり始め、日曜日以外休めなくなって行く…社会構造の変化が起き始めて来だしたのである。5月8日と言う、特定日には休めなくなって行くのである。旗日以外は農作業…の時代から、現今の日曜・旗日に農作業…の時代の様にである。古代から、徳川300年・明治・大正・昭和と続いて来た、時の流れが一変して行くのであった。
 それから40年、宿屋の前を通る人は誰一人としていない。
 そうそう、昔からこの日は、16歳の娘は赤城に登ってはいけないとの伝承がありました。何故??
 「赤堀道元の娘が小沼に入水して、竜に成った」との伝説…この話は、又の機会に…!

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