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2006年05月09日

●よもやま話「北爪将監」

 鼻毛石町の赤城寺境内に、市指定文化財「北爪将監供養塔(きたづめしょうげんくようとう)」と言うのがある。
 将監は戦国時代に、この地方で活躍した、在地の武将であった。将監は、大蔵(木瀬・下増田)、甚内(新田・世良田・平塚新田)、新八郎(埼玉・大里郡三尻・新堀新田)、式部の5人兄弟の長兄であったとの記録がある。
 鼻毛石・北爪家の紋所は、表紋が「丸の中に矢ちがいに十六弁の菊」、裏紋は「三つ巴」である。菩提寺は同所の「赤城寺」である。埼玉・三尻の北爪家の紋所は、「太丸に三つ鱗」で菩提寺は熊谷市玉井の大正寺である。北爪両家(鼻毛石・三尻)には多くの中世文書が残されていて、当時の活躍を知る事が出来る。しかし、今回は「よもやま話」として短編でお話をしたいので、詳細を知りたい方は後日に…と言う事で、ご了解を賜りたい。
 将監の父親は北爪助八と言う武将で、永禄6年に、勲功により館林の長尾氏より所領を与えられている。将監も山上城攻略戦に参陣し勲功を上げている。今回は鼻毛石の北爪一門に伝わる、名の由来伝承を…。
 昔・むかし・吉井公(?)が北陸征伐に行く途中、此の辺りに陣を張ったそうだ。その折り、何んとか家来にして欲しいと頼み込んだとの事。誓詞を書けとの事で、書こうとしたが、水が無い…困っていたら、神社の境内の大石に水溜まりが…その水で墨を摺り、誓詞を差し出したと…その大石が現在の「硯石」である。
 許され家来として参陣、北陸方面へ、それから京都御所警護へ。御所の門番を願い出たら、許され、北門の門番に…北門警備詰所に配属…「北に・詰め」たので「きた・つめ」から北爪へ、と言う訳で、この姓を朝廷から賜ったと。
 紋所については、弓矢のぶっちがえた下に、十六の菊の紋章が…。しかし、帝の紋章と同じ菊では申し訳ないと言う事で、菊の紋を改め、八重菊にしたとの言い伝えが残る。埼玉・北爪家の紋所は何故??「三つ鱗」、多分、北条家に仕えた関係で北条の紋所を拝領したのでは…。他にも類例がある。
 将監供養塔は、没後100年を記念して、子孫が造立したもので、近年、その地下から兜や骨の一部が出土したとの事。最近、大前田・北爪家の先祖調べをお手伝いする機会があり、墓地等を見させて頂きました。また、北爪宗家所蔵の系図(江戸期作成・下増田・北爪家系図)等を参考に調べました所、伊右衛門と言う者が、大前田に分かれた事が記載されておりました。また、その足跡が、世良田薬師の石(水鉢)に刻まれていました。
 なお、大前田・北爪家の菩提寺は苗ケ島の金剛寺であり、金剛寺に残された江戸初期の過去帳からも、一門の足跡を知る事が出来ました。

[北爪将監供養塔(鼻毛石町)]
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[八幡神社の硯石(鼻毛石町)]
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赤城寺案内マップ

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コメント

泉龍院の住職は北爪家に詳しいはずです。

昭和2年生まれの父は子供の頃群馬に先祖のお墓があると聞いていました。聞いていた話をたどり、金剛寺、赤城寺を知り、父は念願の先祖のお墓参りに行きました。両寺のご住職様にもお話を伺い、感謝しています。父は東京で育ち現在は埼玉の鳩ケ谷市ですが、元気でくらしていることへの感謝を込め、無事先祖のお墓参りができました。北爪の歴史を調べているこちらのサイトも読ませて頂きました。父姓は北爪、紋は「矢ちがいに菊」です。

私の母は室沢の北爪の出です。
母の実家は水車があり近所では 車屋 と呼ばれていたようです。私自身も若いときにこの水車を見た記憶があります。
そして家紋が矢ちがいに菊です。
古い墓石にも刻まれています。
この家紋が昔から気になっていました。

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