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2007年01月31日

●ぐんまフラワーパーク*アザレア展

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ぐんまフラワーパークでは、園内のフラワーホールで「アザレア展」を2月19日まで行っています。
今回展示しているのは、50品種、200鉢の盆栽仕立て、スタンダード仕立て、玉作り仕立てのアザレアで、中には約85年以上の古木のアザレアを見ることもできます。

【問いあわせ先】
ぐんまフラワーパーク
電話 027-283-8189 FAX 027-283-8389
http://www.flower-park.jp

ぐんまフラワーパーク案内マップ

2007年01月29日

●赤城南面千本桜まつり情報

平成19年1月26日(金)午後2時から前橋市宮城支所会議室において、第2回赤城南面千本桜まつり実行委員会が開催され、桜まつり期間や駐車料金等が決定されました。

□ 桜まつり期間    4月6日(金)〜19日(木)
    ※桜の開花状況によって変更する場合があります。

□ 駐車料金
     普通車 500円
     大型バス 2,000円
     小型バス 1,000円

□ 桜まつりイベント
  (全国都市緑化ぐんまフェア一年前プレイベント記念式典)
     4月15日(日)12時30分〜
     みやぎ千本桜の森特設イベントステージ

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平成19年赤城南面千本桜まつり実施要領PDFファイル

2007年01月26日

●よもやま話「時代に翻弄された柏倉の土豪達」

柏倉には深沢・大崎・阿久沢を名乗る人達が多く住んでいる。その足跡を追うと室町時代に遡ることができた。今を去る440年程前の事である。その中の阿久沢家に関しては、更に数百年遡る事ができるのではないか。同家の墓地には、赤城塔や板碑が現存している事がその証である。

三夜沢の奈良原家に、これら一門に関する記載の古文書が現存している。前橋城主北条高広が永禄9年11月に三夜沢神主奈良原氏に出した書状がそれである。奈良原家には北条高広文書(永禄4年・永禄9年・永禄12年・元亀3年・天正5年・未詳1)が現存している。

永禄4年(1561)とは、前年の永禄3年に桶狭間に於ける戦が、翌年の永禄4年には川中島で、上杉・武田、両軍が最も激しくぶつかった年でもある。関東に於いては、永禄3年に上杉景虎が上杉憲政とともに三国峠を越え関東に出兵し、小田原城を攻撃した。この時、景虎(謙信)は関東管領に就任し、厩橋城(前橋)に北条高広を城代として置き、本拠地とした、また永禄6年には北条高広を厩橋城主とした。奈良原家には永禄3年に上杉憲政より出された書状や永禄4年の上杉謙信制札・永禄5年(?)の上杉謙信の書状等が残されている。

当時、上野国は北条・武田・上杉の接点であり、そのせめぎ合いが各所で行われていた。

石殿この赤城南麓一帯もその戦乱の渦の中に巻き込まれていた。柏倉には永禄3年に造立された石殿二基(市指定文化財)が、六本木家墓地(国道353沿い)にある。この一族も当時この一帯で活躍していたのだろう。

柏倉の堀内には、西屋敷(砦?土居・堀)(六本木氏)の跡が現存している。柏倉の上と下ではあるが同門であろう。

また、市之関の阿久沢氏も元は六本木姓を名乗っていたが、後に城(黒保根)の阿久沢能登守の娘を嫁に迎え、以後、姓を阿久沢に改めたとの伝承を残している。柏倉の各家の先祖達は共に生き残りを掛け懸命に生きていたのであろう。それを物語る文書が永禄9年の北条高広文書である。まさに、それら一門の悲哀と時代に翻弄された一端を、かいま見る事が出来る貴重な記録である。また永禄9年は、箕輪城が武田信玄の猛攻に会い落城した年でもある。この時、大胡城主、上泉伊勢守は箕輪城に在城して戦っていたのである。そして敗れ、諸国流浪の旅に出たと伝えられいる。この地の地侍達も伊勢守の軍に加わっていた者も多かったのではなかろうか。奈良原家赤城神社文書

赤城山三夜沢大明神為御本社之 上、 依在立願之旨、柏倉郷内深沢修理 亮抱弐貫文、松村左衛門四郎抱近戸免 弐貫五百文、同諏方免壱貫文、阿久沢 源三郎抱参貫文、大崎次郎左衛門抱 七百文、都合九貫弐百文之所、永代令 寄進者也、毎月可被抽祈念事肝要候、 仍状如件、    永禄九年丙寅     北条丹後守    十一月十五日     高広(花押) 三夜沢神主 奈良原紀伊守殿

この文書は、柏倉郷内の深沢修理亮・松村左衛門四郎・阿久沢源三郎・大崎次郎左衛門の所有している土地を、北条丹後守が赤城神社に寄進したと言う内容のものである。恐らく、これらの在地の土豪達は上杉方で無く、小田原の北条方に付いた為にその所領を削られたのではと推測される。北条方では無かろうかと言うのは、阿久沢家の家紋を見ても分かるが、三つ鱗の紋所である。これは、苗ヶ島の阿久沢、市之関の阿久沢も同紋であり、小田原北条の紋である。上杉方・武田方・太田由良方・北条方が入り乱れ混戦模様の中で、どちらに付くか、迷いに迷い様子見の状態が続いていたのだろうが、この時点では、上杉方が有利??…とも言えない年であったろう。数年後には、小田原・北条の勢力がこの南麓一帯を押さえる様になるのである。

さて、深沢一族であるが、黒保根・宿廻には深沢城があり深沢一族が住んでいたと、天正六年に落城、越後に落ち延びたとの伝承がある。恐らく同門であろうと…。

松村一族であるが、古くは大沢に鎮座していた近戸神社の別当職であったとの事。この文書に書かれている「…松村…抱近戸免…」とは大沢にあった近戸神社の社領として税を免じられた土地と言う意味であると…。云う迄もなく、赤城神社の分社であった。「諏方免…」とは諏訪神社の社領として税を免じられた土地の事である。共に松村一族との繋がりが…。

御神幸 阿久沢一門であるが、この一門の歴史は前に書いた通り古く、鎌倉時代に遡る事が出来るのでは無かろうか。二宮赤城神社の式行事の折に、輿懸(おこしかけ)にて湯茶の接待をしているのがこの一族である。

大崎一門であるが、諏訪山東昌寺は大崎一族の旦那寺である。大崎家の宗家の屋敷は殿替戸館(大崎屋敷)と称し、土居・堀が現存しており、市の指定文化財に指定されている。武勇に優れた者が輩出している記録が残る。

2007年01月25日

●関東ふれあいの道「山里のいで湯のみち」通行止のお知らせ

林道不動大滝線開設工事のため、現在、関東ふれあいの道「山里のいで湯のみち(赤城温泉〜宿の平駐車場)」は通行止となっていますが、通行止期間が次のとおり延期となりました。

■赤城温泉〜三宝堂間  平成20年3月末まで

なお、宿の平駐車場〜三宝堂間の通行止は、平成19年2月末までです。

不動大滝周辺マップ(PDFファイル)

2007年01月24日

●冬の不動大滝

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[平成18年1月24日撮影]

不動大滝のようすです。暖冬のためかあまり氷柱ができていません。



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[平成19年1月13日 AM11:00撮影]

今年は正月から穏やかな日が続いていましたが、このところだいぶ冷え込んできていたので不動大滝の凍結の様子を見てきました。 不動大滝の手前の日陰では、立派な氷柱ができていましたが、滝の周りは残念ながら氷柱がいくらもありませんでした。

 ※ 不動大滝へ向かう遊歩道では、日陰のため凍結している箇所がありますのでご注意ください。

●よもやま話「大前田に112才で亡くなった老婆が!!今から306年前の出来事」

この所、大前田栄五郎の事を調べようと、川東の田島家墓地やその周辺を散策する様になった。大前田には古文書が全然残っておらず江戸時代の記録を追い求めるのは大変難しい。

以前、宮城村長を務められた中村武夫(故人)さんに、その件についてお伺いしたところ、「当家に保存されていたが、火災で焼失してしまった。」と言う様な御返事をお聞きした憶えがある。何れにしても皆無に等しいのではなかろうか。

しかし、今回、栄五郎を追ううちに、少しずつ紐解ける部分も…無きにしもあらず…かも??

「大前田栄五郎の生涯」を執筆した浅田先生(故人)が本の中で、「田島家にも菩提寺の金剛寺にも古い過去帳が無いので分からないが、新之丞という名が幾代か続いていた」という記載がありますが、今まで無いと言われていた過去帳については、現存している事が判明しております。但し、全然整理されて無く、雑然と列記されていただけなので、無いと言われていたのでは無いでしょうか。

今から10年位前に、志田住職より過去帳をお借りし整理をいたしました。そして、それと、当家に残る苗ヶ島村の五人組帳とを照合、そして苗ヶ島全戸の墓地の調査をいたしました。しかし、苗ヶ島以外の檀家の調査は手付かずの状態で今日に至っております。以前、地域振興課長の先祖調べの協力を要請された折にも、この時整理した過去帳が大変役に立っております。そして、今回の田島家でも同様です。ともに金剛寺の檀徒であった事が幸いしたのでは無いでしょうか。これを機会に、その他の檀徒の方々の系譜が多少解明される事でしょう。

ただ、過去帳の中の最も古い記録は元禄時代頃からです。

その中に、元禄四辛未年正月 曜華妙春 大前田 大法寺老母示寂百十二才という記載が目に入りました。今から300年余り前に…112才??凄いと…。元禄九年丙子十一月には、大法院自身が亡くなって居ります。戒名は「権大僧都祐永法印」と記されておりました。多分修験の家であったのでしょう。何故ならば、修験道は妻帯が許されていました。

さて次ぎに出てくる記載は、享保十五年庚戌三月 春林道芳信士 大前田川東 大法寺孫 嶋田久松 と、次ぎは寛保三癸亥六月 實相妙真大姉 大前田川東 嶋田新之丞女房と?????

これはもしかして?? 嶋田…田嶋??新之丞?? 是非この墓石を見付けて見たいですね!!

今日のところは、この辺で終わりに…。

[写真の資料提供:金剛寺 志田住職]

2007年01月23日

●よもやま話「大前田英五郎(田島栄五郎)の妹婿」

  前橋市の文化財指導員は、受け持ち地区の決められた文化財を毎月見回り、現況を報告するのが主な仕事である。その中の一つに「大前田栄五郎の墓」が含まれている。

  栄五郎の墓地は、生家からかなり下がった所の、鬱蒼と茂った森の中にある。墓地の西側崖下には東神沢川が流れている。そんな事からか、この辺り一帯を川東と呼ぶ。生家の西側には、中世の砦跡(大前田砦・打出)の遺構がそのまま残っており、往時を偲ぶ事ができる。

  この墓地は、田島家の本家・分家(栄五郎家)の墓地であり、本家の墓石群は南側に、そこには数基の無縫塔が見られる。両家とも、金剛寺の檀家であった関係からその足跡を知る事が出来た。

  本家は修験道の家であったのだろうか、無縫塔には「法印」の戒名が刻まれていた。その他、北側に一基、完全な形をした宝篋印塔がある。田島家の当主の話によれば、三夜沢赤城神社参道松並木を寄進した「川東彦兵衛」の墓石であると…田島家の先祖と…??

  私見だが、その墓石はそんなに古く無いと思う…多分、江戸中期…のものだろう。彦兵衛が松を寄進したのは、慶長17年の事である。それと、この墓地の敷地の形状からすると、砦の一角の可能性も否定出来ない…。と同時に、ここには中世の五輪塔が無い、江戸初期から墓地になったと思われる。ただ北側の辺りに土饅頭の様な盛り上がりが数ヶ所あり、興味を惹かれた。誰かの墓地なのだろうか?? 発掘したい様な衝動に駆られる場所である。

  さて本題に戻るが、毎回巡視している関係で、一族の墓石を眺めていたら、苗ヶ島邑 喜兵衛倅俗名田嶌万蔵行年三十五歳と刻まれていた。苗ヶ島邑・喜兵衛?? 何処の家の倅だろう?? と興味が湧いてきた。

  帰宅後、浅田晃彦氏の著書「上州遊侠 大前田栄五郎の生涯」を開き見たら、万蔵の姓は長岡と記されていた。早速、過去に調べて於いた村内(苗ヶ島)各家の墓地の墓石配置図と金剛寺の過去帳等を照合し、長岡姓なら権皆戸(ゴンガイト)では…と考え、各家の墓石配置を見ていたら、先ず喜兵衛の墓石が見つかり、次ぎに、この様に刻まれた墓石がある事が判明、「文化七年申天二月十五日 現香春縁信士 長岡外治郎 十二才 施主大前田村田嶌信太郎」と刻まれていた。信太郎とは万蔵の息子の名である。万蔵の父、喜兵衛は文政十二年十二月初八日に没していた。

  長岡家は当時、苗ヶ島610番地(現東宮眞氏宅)に居住していたが、現在の子孫は苗ヶ島209番地に転住している。何時の時代であるか分からないが、敷地は東宮六郎治が買い受け所持していたらしい。権替戸には後二軒家があったが、共に長岡姓を名乗っていた。一軒は607番地・長岡重次郎(旧称要右衛門)・現石橋友代宅であり、もう一軒は612番地・長岡継次郎(旧称利右衛門)・現前原勇市宅である。喜兵衛宅は610番地・長岡喜市郎(旧称喜右衛門)であったが、その全ての家が転住して、その子孫は住んで居ない。喜兵衛の子孫は最近迄、旧跡地との交流を続けていたらしい。山街道薬師の氏子に組みしていた事、併せて、下田中薬師の氏子としても…。近年、秋葉様(金剛寺横)迄が遠いので、山街道薬師については離れたいと言っていたと、権替戸の人が言っていた。

  長岡家の本家は現平田孟子宅付近にあり、享保7年の五人組帳には苗ヶ島一番の財産家であった記録が残っている。「おびんずる様」も長岡家の管理していた所であり、我が家との姻戚関係が記録されている。享保時代に隠居・分家した家が下田中の長岡茂樹家である。そして、先祖の故地の近くに戻って家を構え、長岡本家の墓を守って居るのが、長岡規夫さんである。

  前記の信太郎には子供が無く、又、村の萩原家に入ってしまい、田島家を継がなかった。そこで、栄五郎は関村(新里)の岩崎家から弥太郎を養子に迎え、田島家を継がせる。弥太郎の養子が荘次郎氏(旧姓東宮、元宮城村長)であり、その息子が清一郎氏(故人・元宮城村長)である。

  栄五郎の葬儀は信太郎が執り行い、導師は金剛寺住職寛運師であった。栄五郎を金剛寺の庫裏に隠したのも当家の仲介であり、栄五郎の戒名の「歓」の字の許諾と良い、深い深い関係を知る事が出来たのは収穫であった。

 

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[大前田栄五郎の墓]

2007年01月22日

●「花いっぱい・元気いっぱい」花植え作業

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 宮城花いっぱい・元気いっぱい推進協議会(櫻井敏道会長)では、1月20日(土)、宮城公民館駐車場で会員約40名による花の苗の植え付け作業を行いました。今回植えられたパンジーとビオラのプランターは、来年開催される全国都市緑化ぐんまフェアのサテライト会場となる赤城南面千本桜まつりを盛り上げるため、今年のさくらまつりで飾る予定です。
 また、作業終了後、第4回花いっぱいまちづくりコンクールの表彰式が行われました。

[桜井会長、石橋審査委員長、受賞者の皆さん]
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2007年01月20日

●いちごの直売

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前橋市苗ヶ島町の北爪いちご園では、甘くておいしいイチゴの直売が最盛期となっています。
品種:とちおとめ
販売先:自宅の直売所で販売しています。
     (イチゴののぼり旗が目印です)
     ※予約も受け付けています。

北爪いちご園案内マップ

問い合わせ先
前橋市苗ヶ島町516  北爪典男
 電話 027-283-9174

2007年01月15日

●よもやま話「よもやま話の作者に声援が届いた」

 赤城南面森林組合の阿久沢勝史組合長から電話が掛かって来た!! 十中八九?? たいがい電話口の向こうで怒っている姿が想像出来るのだが?? 今日は何んか違う様子??
 怒られても怒られても、懲りない私でありますが、勿論、直そうとしない私も悪いと思うが??まあ私自身、悪いと思った事は一度も無いので、口で謝り・腹で??
 でも、この親分好きなんです!! 怒られても、嫌われても、好きなんです。鬼の様な形相して怒る親分ですが…何せ宮城の西側の親分ですから!!
 昔から、旧宮城村は東西の対抗心が強く覇を争っていました。その敵方(東側から見ると)の大将株が阿久沢家なんです?? なんか戦国時代??
 前にもそれに近い話しを書きましたが、正に戦国の世から、そんな押しくらまんじゅうの様な事が続いていたのでは無いでしょうか?? 今の宮城地区の中で大将らしい大将はこの方位しかいないと思います。少々・難点・欠点はあると思いますが、子分の面倒見の良さはピカイチと折り紙を付けても良いと思います。でも嫌われたら、最後かな??
 そんな親分が…今日は違う??…「よもやま話」を本にしろ!!と?? 桜井(元宮城村長)も言ってるぞ!! 駄目なおめ~だが少しは良い所が?? こいつは良い…とお褒めのお言葉が、電話口の向こうから聞こえて来ました。でもね~、文体が…おかしい…自信ないんです!!ホントの事…。
 まあ何でも褒めて頂ければ有り難いですが、馬鹿は直ぐ調子に乗り・次は悪夢が??なんて事もありますので、お言葉だけ有り難く頂戴しておきます。
 そのお言葉を励みに、せっせと書かねばなるまい、ガンバリます。
 そうそう、…やはり、何らかの関係が…
 今日、旧黒保根村の城(じょう)地区へ行って参りました。そこが、黒川谷の阿久沢家の本拠地だった所、阿久沢家累代の墓石が整然と並んでいました。
 かなり高い山の中と言う印象がありますが、標高は城跡に建つ正円寺で365mです。最近はイノシシが出没し農作物を荒らして困っていると、地元の人が言っていました。サツマイモが大好物とか、大根・里芋は食べないとかの話しも聞いて来ました。近年、宮城地区にもイノシシが出没、被害が出始めているとか。縄文時代にはかなり居たらしいが、江戸時代を含めても余り聞いた事が無いのに…天地異変??頻繁に猿や鹿・カモシカ等を見掛ける様になりました。
 城の人が言ってました。昨年は、熊や鹿・イノシシが獲れたので、肉を貰い食べたと…。群雄割拠する時代が到来…かも??まあそんな事は二度と??…
 十数年前迄は、豪傑が居たんですが…淋しい限りです。組合長には何時までも頑張って、皆を叱咤激励して頂きたいですね!!

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[正円寺と阿久沢家累代の墓石]

2007年01月11日

●シモバシラ*ぐんまフラワーパーク

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[平成19年1月11日AM9:30 撮影]

 シソ科の多年草に「シモバシラ」という植物があります。冬の冷え込みの厳しい朝などに、枯れたこの草の根元を見ると表皮を押し広げるように霜柱となって氷の彫刻を作っています。今、ぐんまフラワーパークでこの現象を見ることができます。
 氷の彫刻ですので、暖かくなると溶けてしまいます。その日の寒さにもよりますが、午前10時30分ぐらいまで見ることができるそうです。

【問いあわせ先】
 ぐんまフラワーパーク
   電話 027-283-8189 FAX 027-283-8389
   http://www.flower-park.jp

ぐんまフラワーパーク案内マップ

2007年01月08日

●よもやま話「消えつつある正月行事」

 いよいよ正月気分も過ぎ…しかし最近は、なんか一年中正月の様で、それぞれの節気ごとの気分転換が出来ないと思いませんか??
 そう思うのは私だけ…かも、しれませんが!!
 昔は、隣近所(隣保班)19軒、全てを年始の挨拶回り…狭い路地裏で十九軒の人達に何回出会った事だろう…皆、同じ事をしている訳だから。それが終わると、区全体での新年会、会場の金剛寺へ、しかし公民館が出来たのを機会にそちらに移動。最初は、「起立・(南東の皇居を向き)・きょうつけ!!皇居に対して・礼!!・直れ!!」っと言う勇まし掛け声の皇居遙拝から式が始まった。皆、軍隊仕込みの気合いの入った掛け声であった様に記憶している。特に最近亡くなった石橋元助役の掛け声が、今でも耳の奥に残っている。
 門の門松も森林保護の為、貼り紙の門松に変わり、隣近所の年始回りも、区で一同に会すのだから止めようと中止になり…時代の変化と共に全てが様変わり…これも仕方の無い事…かも知れません。元旦はそんな事で大忙しだった。
 二日は、馬場の馬頭観音へお参り??それは昔の事で今の人は誰も知らないし、行く人も居ない。初市??これも、近年はスーパーで済ませる様になりまして…。…正月の初仕事??田植えの段取り??日取り??もうそんな事考える家なんて皆無。
 三日は、竜蔵寺の青柳大師、これもこの近在の人は余り行かない様だ。当家では、前新宅・東前のおばさんが毎年参詣していたので、頼んでいた様に記憶している。おばさん夫婦は我が祖父の仲人っ子であり、実家は富士見村の原之郷、老農・船津伝次平の血を引く方であった。
 四日は、昔は「ナベカリ」と称し、初嫁が実家に里帰り…日帰り、御飯を持って親に食べさせる??遠くても日帰り??嫁に行った覚悟を決めさせる、等々の理由が、しかし、もうこんな事やっている家あるだろうか??。
 正月四日は女と坊主の年始回り??これも、昔・昔の話しで、もう誰も知らない筈。その他、御棚サガシと称して、三ガ日に供えた物を、この日に下げた。
 五日は、この日までを正月と称すると…「ゴカンニチ」と言う所もある。この日を仕事始めとしている所もある。
 六日は、山始めで、供え餅を持って十二様へ…今は十二様の所在すら知らない人が大半である。
 七日は、七草がゆ、四日に下げた物を七草がゆの中に入れ、無病息災を祈りながら食べるのである。

2007年01月03日

●よもやま話「明治元年9月造立の無縫塔」

 我が家の元日恒例行事は先ず最初に菩提寺・金剛寺に出向き、新年の挨拶から始まる。
 何時の時代に変更になったのか…敗戦後、農地解放等により貧乏と親戚になったから??かも…しれない。まあしかし、我が家の長い歴史からすると、その大半は貧乏と同居していたと考えられる。数代おきに…??ときたま商才に富んだ人物が出て財を成すが、その後の代は零落…時代の趨勢等の事情もあったろうが…それを、繰り返している。
 あっ!!話しが逸れて…菩提寺への新年の挨拶であるが、我が家に関しては、江戸時代から戦後しばらくの間迄、金剛寺住職が当家に新年の挨拶に来られていたとの事、無論我が家だけだったみたいですけど…。葬儀に関しても、本堂を利用しての葬儀も当家だけとか…、明治迄は東の新宅も同様であったが、神葬祭に変更した為に…当時の寛善和尚との紛糾??などの理由にもよるが、檀家を離脱したので、戦後暫くの間、当家と金剛寺の関係はその様な状態が続いていた記憶がある。
 話しが長くなってすみません。実は年賀の挨拶に出向き志田和尚に御挨拶した折りに、金剛寺境内にある、歴代住職の墓地の入り口から入って直ぐの左側に、無縫塔と呼ばれる石造物がある。そこには、東京桜田・松平等々の文字が刻んである…なんの塔だろうか??誰の墓石か、何時か「あっちゃん」に聞こうと思っていた…との質問が住職から…多分、供養塔??かも…なんて返事を返し、後日調べて、よもやま話の中で御返事…と…言って、お寺を辞しましたが、時が経つと忘れてしまうので、帰路、墓地に寄り、くだんの石造物を拝見する事に…。
 無縫塔には
   明治元年辰年九月初六日
   法印 光顯 位
   東京外桜田
   松平河内守藩生    
   施主
   當山現住寛善造立
と刻まれていました。
 読み解くと明治元年9月6日、光顯と言うお坊様を、金剛寺住職寛善師が供養した。光顯師は東京の外桜田の松平河内守の藩邸で生まれた、と記されている。この塔が墓碑であるのか、または、供養塔であるのかは判然としない。金剛寺所有の過去帳(慶応2年〜明治6年)にも光顯師に付いての記載は無い。また、当家の記録にも光顯師に付いての記録は今の所、見当たらない。
 さて明治元年9月と言う年に付いてであるが、まさにその月に元号が慶応から明治に変わったのである。世は正に激動の時代であり、その後、全国に吹き荒れる、廃仏毀釈の荒波がこの金剛寺にも押し寄せようとしていた時代である。明治政府は仏教は外国の宗教であると…、廃仏のうねりはやがて金剛寺に…そして、寛善和尚は寺を追われるのである。寺の記録に、「当国足門村(旧群馬郡・現高崎)徳昌寺へ転住」とある。しかし、本来、十六世金剛寺住職の地位であるべき筈が、名前と転住先のみ記されている。いかに苛烈な時代の波に翻弄されたかが伺いしれる。過去帳から推測するに、寺を追われたのは、明治6年正月頃と思われる。寛善和尚の足跡は完全に消し去られたと言っても過言ではあるまいか。十五世住職・寛潮が亡くなられたのが安政6年5月15日であり、その後を継いだのが寛善和尚である。 
 東宮六郎治の略歴に安政6年金剛寺第十六世住職寛善僧都に入門書読を学び…とある。
 明治六年からは寛運と言う方が金剛寺十六世となり、大正2年に亡くなる迄住職を務められた。侠客・大前田栄五郎の葬儀を執り行ったのもこの寛運師である。
 さて、松平河内守であるが、1829年〜1903年に活躍した、1200石取りの幕臣である。大阪町奉行や勘定奉行を歴任したが、明治以降の活動は不明との事である。
 寛善師の追放後、寺は荒れ果て…との言い伝えが残る、檀家は離散…寺から離れがたい信者達は廃仏毀釈の嵐の過ぎ去るのを待ち、寺の再興を図るのである。
 出来る事なら、寛善和尚の名誉回復と追善供養をこの機会にやって戴きたい…もう誰も関係者が居ない事だし…、当時は国策でもあるし、寛善和尚の名誉回復なんてとんでも無い事だったのかも、追った側の人間も同じ村の人達だしね…。

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2007年01月01日

●新年あけましておめでとうございます

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[初日の出に照らされる赤城山]

謹 賀 新 年

元旦からとても穏やかな日を迎えています。
本年もよろしくお願いいたします。