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2007年01月03日

●よもやま話「明治元年9月造立の無縫塔」

 我が家の元日恒例行事は先ず最初に菩提寺・金剛寺に出向き、新年の挨拶から始まる。
 何時の時代に変更になったのか…敗戦後、農地解放等により貧乏と親戚になったから??かも…しれない。まあしかし、我が家の長い歴史からすると、その大半は貧乏と同居していたと考えられる。数代おきに…??ときたま商才に富んだ人物が出て財を成すが、その後の代は零落…時代の趨勢等の事情もあったろうが…それを、繰り返している。
 あっ!!話しが逸れて…菩提寺への新年の挨拶であるが、我が家に関しては、江戸時代から戦後しばらくの間迄、金剛寺住職が当家に新年の挨拶に来られていたとの事、無論我が家だけだったみたいですけど…。葬儀に関しても、本堂を利用しての葬儀も当家だけとか…、明治迄は東の新宅も同様であったが、神葬祭に変更した為に…当時の寛善和尚との紛糾??などの理由にもよるが、檀家を離脱したので、戦後暫くの間、当家と金剛寺の関係はその様な状態が続いていた記憶がある。
 話しが長くなってすみません。実は年賀の挨拶に出向き志田和尚に御挨拶した折りに、金剛寺境内にある、歴代住職の墓地の入り口から入って直ぐの左側に、無縫塔と呼ばれる石造物がある。そこには、東京桜田・松平等々の文字が刻んである…なんの塔だろうか??誰の墓石か、何時か「あっちゃん」に聞こうと思っていた…との質問が住職から…多分、供養塔??かも…なんて返事を返し、後日調べて、よもやま話の中で御返事…と…言って、お寺を辞しましたが、時が経つと忘れてしまうので、帰路、墓地に寄り、くだんの石造物を拝見する事に…。
 無縫塔には
   明治元年辰年九月初六日
   法印 光顯 位
   東京外桜田
   松平河内守藩生    
   施主
   當山現住寛善造立
と刻まれていました。
 読み解くと明治元年9月6日、光顯と言うお坊様を、金剛寺住職寛善師が供養した。光顯師は東京の外桜田の松平河内守の藩邸で生まれた、と記されている。この塔が墓碑であるのか、または、供養塔であるのかは判然としない。金剛寺所有の過去帳(慶応2年〜明治6年)にも光顯師に付いての記載は無い。また、当家の記録にも光顯師に付いての記録は今の所、見当たらない。
 さて明治元年9月と言う年に付いてであるが、まさにその月に元号が慶応から明治に変わったのである。世は正に激動の時代であり、その後、全国に吹き荒れる、廃仏毀釈の荒波がこの金剛寺にも押し寄せようとしていた時代である。明治政府は仏教は外国の宗教であると…、廃仏のうねりはやがて金剛寺に…そして、寛善和尚は寺を追われるのである。寺の記録に、「当国足門村(旧群馬郡・現高崎)徳昌寺へ転住」とある。しかし、本来、十六世金剛寺住職の地位であるべき筈が、名前と転住先のみ記されている。いかに苛烈な時代の波に翻弄されたかが伺いしれる。過去帳から推測するに、寺を追われたのは、明治6年正月頃と思われる。寛善和尚の足跡は完全に消し去られたと言っても過言ではあるまいか。十五世住職・寛潮が亡くなられたのが安政6年5月15日であり、その後を継いだのが寛善和尚である。 
 東宮六郎治の略歴に安政6年金剛寺第十六世住職寛善僧都に入門書読を学び…とある。
 明治六年からは寛運と言う方が金剛寺十六世となり、大正2年に亡くなる迄住職を務められた。侠客・大前田栄五郎の葬儀を執り行ったのもこの寛運師である。
 さて、松平河内守であるが、1829年〜1903年に活躍した、1200石取りの幕臣である。大阪町奉行や勘定奉行を歴任したが、明治以降の活動は不明との事である。
 寛善師の追放後、寺は荒れ果て…との言い伝えが残る、檀家は離散…寺から離れがたい信者達は廃仏毀釈の嵐の過ぎ去るのを待ち、寺の再興を図るのである。
 出来る事なら、寛善和尚の名誉回復と追善供養をこの機会にやって戴きたい…もう誰も関係者が居ない事だし…、当時は国策でもあるし、寛善和尚の名誉回復なんてとんでも無い事だったのかも、追った側の人間も同じ村の人達だしね…。

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