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2006年04月30日

●よもやま話「5月5日」

 いよいよ5月です。男の子のお節句がやって来ます。何処の家でも、鯉登りが天高く舞い始めます。
 鯉の瀧登りは、生まれた男の子が鯉のように川や瀧を万難を排し、川上に登る様に、出世してくれます様にと願い、掲げるんだそうです。
 ところで、男の節句は何故5月5んち・・・?
 こんな話を聞いたか、読んだ記憶があります。
 昔、昔、中国では5月5日に生まれた子供は、不吉な子供として始末されたり、捨てられたりしていたと…。
 あるお坊様がその事を憂い、何んとかそんな迷信を止めさせようと、作り話を流布したそうです。どんな話かと言いますと、昔々、ある農村に貧しい若夫婦が住んでいたと、しかし、なかなか子供が授からず悩んでいたところ、ついに待望の男の子が授かったが、生まれた日が5月5日・・・!。夫婦は悩み苦しんだとか・・・そして、遠くに捨てようと、きっと誰かに拾われ、大事に育ててもらえるように念じながら・・・。
 捨てたは良いが心配になり、その場所に戻って見ると既にどなたかに拾われ、連れられて行く後ろ姿・・・。後年後、その若者は中国で有名な武将に成ったとか、その武将は、捨てる時両親が書き記した御札を、肌身離さず身に付けていた・・・との話をです。
 そうそう、話は違いますが、東宮鉄男大佐はあまり宴席での芸が無く、「鯉の瀧登り」と称しては、頭から徳利の酒をかぶったそうです。

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2006年04月29日

●「とんとんクラブ 農業体験」のお知らせ

 食農学習 今年の第1回が決定!!
 5月21日(日)、野菜の成長と自然に感謝する1日
 ー 新緑の農業体験 ー

【実施内容】
 自然に触れて大地の恵みを味わう大好評の食育イベント。
 野菜(スイカetc.)の植え付けを楽しく行いながら、子どもの豊かな心を育む農業体験に家族や友達同士で参加しよう!
 当日は、赤城南麓で採れた新鮮野菜の朝市も開催します。

 ■参加料:大人1,200円 子供600円(旬の食材を使ったランチ付)
 ■申込:TELまたはFAX、メールで

[問い合わせ先]
マイステージ内とんとん広場事務局
TEL.027-370-2011
FAX.027-365-2296

E-mail:tonton@my-stage.net
http://www.fukubuta.co.jp/
とんとん広場案内マップ

●よもやま話「赤城神社の松並木」

 慶長17年、大前田村の川東彦兵衛が松苗を太田金山より取り寄せ、植えられたとの記録が、社家の記録に残って居ります。しかし、江戸時代、赤城神社参道松並木との呼称はされて居ますが、その所有は領主に、つまり、御領地(官地)になっておりました。
 その松の管理は野付四ケ村、三夜沢村・鼻毛石村・苗ケ島村・柏倉村の四ケ村が秣場(まぐさば)として、並木の手入れ、風倒木、枯木、植林管理・道路管理の仕事を請負、役所に毎年管理状況報告を致しておりました。
 しかし、明治23年、郡長から、県の指令により「並木枯損木」の無代価払下げの通告がありました。つまり、明治22年に、七つの大字が集まり、宮城村が誕生したからであります。
 そこで、否、これは旧来の四ヶ村の権利である。否、これは村全体の権利であるとの紛争に発展し、紛糾していくのであります。
 明治32年には、払下げの手続きを富樫竹治と言う弁護士に成功報酬を条件に依頼しました。条件は成功した時は収益の半分を、不成功の時は一切無しでした。
 さて、払下げ決定に際し同弁護士は、収益は1万円であるから、報酬額は5000円であると。並木の立木全部を売却しても払えない程の膨大な金額でした。結局、4462円余を支払う羽目に成ってしまいました。その後、郡長に評価額をお聞きした所、1074円余であると・・・、ですから、その半分の537円余で良いとの返事。しかし、後の祭り、既に、支払い済みに・・・!
 当時の村長及び関係者はその責任を問われ家屋敷を売却したり、大変な騒動に発展して行ったのです。その事件を契機に、村有財産として村民全体で手厚く管理運営をして行くのです。
 明治40年には大々的に松の植林を行います。そして、成長した松は、敗戦後の学校建設及び役場建設に多大な貢献をするのです。そして、松並木は赤城神社に渡されて行ったのです。
 この事件の顛末に付いては、東宮六郎治が詳細な記録を残して居りますが、簡略された記録が村史751ページに「並木事件」として掲載されております。
 なお、松並木の根元に生えているツツジは、元々この一帯の山野、何処にでもに自生しておりました。しかし、毎年、刈り払われ、焚き付けの材料として使用されていました。しかし、時代と共に、用途を失い成長するに任せる様に・・・!
 咲けば綺麗ですし、今度は、補植してくれる人も出て来たり・・・。
 その事に付いては、三夜沢の人の話が伝わっております。昔は、自生のツツジは無価値・雑草と同じ位だったんです。評価は時代と共に変わるらしいです。

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●赤城山の花々

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 今頃…そうなんです…桜が咲いたり、花桃の花が咲いているんです。
 花桃は未だつぼみ…ゴールデン・ウイーク頃が見頃だと思います。
 場所ですか??忠治温泉の脇を通り、赤城温泉方面に向かって登った左り側です。
 昭和50年代に花木組合の人達が植えた物なんですが、今は放置され、手入れもされておりませんが、この時期、雑木の間から、存在を誇示する様に咲いています。当時、マンカラ・カジューさんと言う方がリーダーで植えたので、土地の人は「マンカラ・桜と!!」。そんな事、言うと怒られちゃうかな??でも可愛い子分が言うのだから…その方も既に鬼籍に入られています。

2006年04月28日

●よもやま話「もうじき5月だいの〜」

 はぁ、じき5月だいの〜!5月つえば、なんつったって節句だい!!そのメー(前)に、八十八夜だいノー。
 昔シャー「わかれ霜」と言ってたんベー、この頃ァー、良く霜が降ったからノー。八十八夜ニャー「アンピン餅」をこさえ、蚕の神様に進ぜた。このアンピン餅の事を「シモッ・プタモチ」とも言ったんサー(馬場町)。また、九十九夜を別れ霜とも言ったんサー(馬場町)。
 5月の節句ニャー、鯉のぼりおっ立てて、オコワ(強飯・赤飯)を蒸かし、屋根にショウブと餅草を差したいノー。今じゃーあんまり、そんな事しなかんベー。それからショウブ酒、飲んだいノー。何んつったって、ヘビに囓られねー様にしなけりゃあ、なんねーからノー。何故!!
 昔っから、竹筒の徳利に酒入れて、ショウブを差して、そいつを飲むんさー。そん時採ったショウブを風呂に入れて、ショウブ湯にヘーッタもんだい。ショウブ酒、ウンメーかって??…臭くって、マジカッタイノー。(市之関・柏倉他)、草刈り、山仕事でヘビに出くわすんで囓られちゃー、やだもんな…。

2006年04月27日

●よもやま話「赤城に天狗が??」

 東宮六郎治の蔵書の中に、「山岳」(明治47年刊)第七年、第二号、303ぺージの項に「序に赤城山の天狗の事を書けば、新著聞集に赤城山の天狗松の坊が紀州有田郡由良法燈寺の伽藍を一夜の内に建てたと言う話が載っている外、世良田の長楽寺にある赤城秘文に「赤城山有一練行之人。三十余年影不出山、木食潤飲。氷雪不凍。有神異興無数天狗友善。(中略)適師(法照禅師)陟赤O従容於霊区練行人出迎」此禅師の弟子になって了需と号した「上野一州。学師之道者。一稱赤城門徒。以彼需翁為祖。需之肖像現今在赤峰」。それから今大洞の県社八の内に飛鳥社(国志によれば山神、稲荷,雷神、水神)とあるのは天狗を祭ったものであるという。」…「天狗」とは何か…今も全国各地に残る天狗伝説。
 かっては天狗が山伏に化けているのでは??などと信じられていた。赤城には天狗は居ないと思っていたが…居たんですね…天狗に関する伝承は、日本固有の山岳宗教・修験道と密接な関係があります。赤城山もかっては山岳宗教の霊山でした。沼田の迦葉山もしかり…天狗で有名ですよね!!

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2006年04月26日

●よもやま話「田鶏(ティエン・チー)??」

 今から50年位前の話…。筆者、宮城小学校在学当時の出来事…です。
 弁当の時間…まだ、給食なんてなもんはありませんでした。但し、粉ミルクだけは出た様な記憶が…アリマスデス。我が家は養鶏農家の走り…何千羽も飼っていました、鶏を。当然、来る日も来る日も、弁当のおかずは「卵焼き」!喰うのも、見るのも吐き気がするくらい嫌だった!!。「今なら、親の気持ち分かっただろうに…」。
 隣の席に座っている、弥源治の深沢君は毎日・毎日・同じおかず。それが、とっても旨そうなんだ〜、喰いテーよ〜。毎日・毎日・彼に、弁当、取りかえっこすべー…って声を掛けるんだが、返事はダメ・だめ・ダメ・駄目だっつう返事ばかり。でも奴は、俺の弁当を恨めしそーに見ている。ゆだれがタレそうに…、俺も奴の弁当を見ていると、ユダレがタラタラっと…本当なんだっつうば!!
 ある日、深沢が、とうみや…本当に、この弁当くいて〜んきゃああ、っと言った。その時の嬉しさ…何んと表現して良いか、心の中で、小躍りして喜んだ記憶が、未だ鮮明に残って居る。毎日…毎日、お互いの弁当を取っ替えて喰った。その、旨かった事、筆舌し難し。今で言う、マグロの醤油煮の缶詰の味に近いかも…。1週間以上喰った憶えがある、それ以上かも??
 ある日、深沢が、とうみや、おめえ、それが、そんなに好ききゃー?と…。こんなにウンメーもん、無かんべーっつと言ったら、じゃあ、今度、沼へ採りに連れてグ…っつと。???ただし、しれー(白)、液を出すから、それに触ると毒だと!!??!!少し、頭の中が??何んだい…ガマガエルさー、沼にやぁあ、いっくらでも居る…。ゲェ…ッ!!それっからは、その弁当、見るのも嫌に…しかし、俺のおかずは何時までも、深沢の弁当箱に…。俺も、自分のおかずは、見るのも嫌何んで!!。
 そうそう、中国ではカエルの事を「田圃のにわとり」と言うそうです。カエルの肉は鶏肉の様なので…淡泊な白身の肉。今なら、食べられますデス…幼少の頃の懐かしき思い出。

2006年04月25日

●よもやま話「石宮」

 苗ヶ島町の、とあるお屋敷に素晴らしい石宮がある。主人曰く、当家の稲荷様であると・・・!
 私用で伺った折に拝見させてもらった。梵字が書かれていた、仏教色の強い石宮??築山状の小高い丘の上に、お稲荷様と、その石宮は鎮座していた。
 たしか…この辺は…?? この家の主人の先祖が住む前は、違う人が住んで居た筈。その人も、苗ヶ島内の他地区から移住、そんなに古く無い筈…明治初年頃の話…である。
 たしか・・・?? 古い文献を引っ張り出して見たら、天保3年2月の記録に、社地五畝歩除地 愛宕・石宮 持主 金剛寺と記されていた。
 明治10年頃、寺堂・石塔・石碑等々が、政府の命令で(廃仏毀釈関
連)寺院境内地へ。また、神社は大字に一社へと合併させられて行くのです。この「愛宕」様の呼称も江戸時代は「愛宕」から明治2年には「愛宕大神」、明治6年には「愛宕社」へと変えられていきます。明治10年5月には「愛宕神社」に、そして、明治10年6月、移転願提出。同年7月、東白山神社(苗ケ島神社)へ移転済みと成るのです。百数十年経つと、その足跡さえも止絶えてしまうんですね・・・!
 そうそう、その石宮、いつ頃の物かって?? 元文と言う文字が書いてありました。青木昆陽がサツマイモを普及させた頃で、約270年近く前です。
 何んの神様?? 地域をお守りする神様を産土神(うぶすながみ)といいますが、その一つで、火災に遭わない神様です。
 石宮に何故梵字?? 神仏混淆の影響・山伏がこの神様を広めたから・・・かもね!!。

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●梨の花

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梨園では、今、梨の花が満開となっています。
今年も美味しい梨が実ってくれるでしょう。

2006年04月24日

●あざやか色の花くらべ*ぐんまフラワーパーク

 ぐんまフラワーパークでは、チューリップが見頃を迎え、あざやかな色と香りで「すご〜い!!」の一言です。
 ゴールデンウイークはイベントも盛りだくさんです。
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[平成18年4月24日(月)13:33撮影]

【問いあわせ先】
 ぐんまフラワーパーク
   電話 027-283-8189 FAX 027-283-8389
   http://www.flower-park.jp  

ぐんまフラワーパーク案内マップ

●よもやま話「苗ヶ島水争い」

 東宮六郎治の「苗ヶ島水争い」の記録がありましたのでご紹介しましょう。
 大正13年7月11日、室沢(区長石川恵次郎)苗ヶ嶋(区長東宮端一郎)粕川小麦堰分水の衝突より室沢方下村々(室沢・月田・中村・膳・田面)狩集め、其の勢力3〜400人(室沢、金子松五郎・倉本磯吉・小池善吉等欺出し)甚だ乱暴為し、西部には一水も流さず益々横暴し、為に警官6〜7名、郡長の方々出張、調停の労を取るも和解せず。
 然るに15,16日の降雨に幾分下火と相成るも、尚、20日東西各4〜500人宛集る。
 警官、郡史10数人出張鎮撫致す。其の効なく夜の12時頃警鐘乱打し村々総出の騒ぎ、実に其の物凄き事。筆舌し難く候。21日に至り、郡長・署長の仲裁により和解となり同日午後5時、東宮六郎治宅に於いて手打、従前通りの配分となる。出席者は郡長・郡史・署長・部長・各村長・助役・農会長・区長等なり。
 然るに猶、又、川東に於いて24日、男たる者総出にて契約を無視し乱暴為すに前仲裁者出張説論するも応ぜず。郡長・署長25日午前2時手を引き止むを得ず。西部に於いても一同の出動を報ずる為め,警鐘乱打、25日午前10時頃第1回の衝突に負傷者東部に4名、重軽傷西部に2名軽傷(1名拙家雇人田村勝造極めて軽傷)東部5〜600人、西部1030人、警官33人にて鎮撫すも西部は今井・大室等より応援隊あり、毎刻増員し26日に至り、実に2000人となり警官も前橋・桐生より応援隊を求め33人の増員、都合66人。
 金剛寺を県官・郡史・警官の宿所とし苗ヶ嶋神社社務所を大本営とし、処女会は兵糧炊出し、青年会の夜警実に騒ぎにあり。
 26日第2回の衝突に10数人負傷者。重傷者は月田茂木安太郎なり、後に血の雨を降らせり。御出張諸員の説論により幾分退却候処27日午後9時30分頃東部襲撃旨前原某の虚報にて、尚、又、警鐘乱打大騒ぎ為したり28日午前3時本県鏑木農務課長随行吉水・新井両県属、勢多天笠郡長、郡史宮下一課長・大胡警察豊島署長仲裁にて解決し金剛寺に於いて手打ち、同午前9時一同立会分水全く従前通りとなる。
(旧宮城村史282頁に上野丑之助氏の回顧録あり。)

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[粕川]

2006年04月23日

●よもやま話「くっせぇ〜話の続き」

 臭せ〜話の続きすんべぇ〜!
 いつ頃の話かって!?敗戦後十年ぐれ〜経った頃じゃぁ無かったんべーかなぁ・・・?そうそう、千本桜が植えられた頃だんべ〜・か・なぁ?だから、その頃迄は、冬のエ〜ダ(間)、くずかき(落葉集め)しに、山、行って集めてさあ〜。肥やし場に積んで、タメ掛けて、堆肥作るだんべ〜!そんで、田植えの用意するんだょ〜!どこんちでも。
 それから5〜6年ぐれ〜経ってかなぁ〜。この辺でも、肥料が出始めたんさぁ!30年後半から40年、50年代、嫌っう程、何んでも化学肥料だいなぁ。気が付いたら、何処んちらにも居た「ドジョー・カジカ・チーセーエビ・シジミ」何んかが、皆んな居なく成っちゃつたさぁ〜!?
 農薬のせ〜だっうど!!何んつう話が出ていたんさぁ。本読んだら、ドイツで作られた農薬が日本で売られ、何んでも世界一の農薬使用国に成ってたんだつうで!
 米・野菜・こんにゃく・何んでも農薬が無きゃあ駄目な、どーしょも無え〜国に成っちゃたが、「タメ」は嫌だいなぁ…。しかし、千本桜の木は、青兵(青い兵隊・前橋刑務所赤城農場の囚人を,地元の人はこう呼んだのです)の「タメ」で育ったんで、根性が座ってるから、丈夫かもしんねーなぁ!!っと…。

2006年04月21日

●よもやま話「青い兵隊さん」

 千本桜まつり本部事務所の中での会話です。
 「昔は、いっぺー囚人が居たいねえ〜!春は演芸会、秋は運動会があってサ〜。ネーガシマ(苗ケ島)なんか、みんな、運動会に行ったい。」何つう話…?!
 そんな中の会話で、ある役員の人が、子供の頃、ケイビン車(軽便車??)キャタビラの付いた戦車の様な??その上の荷台に多くの青兵(前橋刑務所・赤城農場の囚人を地元の人はこう呼んでいた)を乗せ、カタカタと大きなうなり声を上げて通るんで、皆んなでそれを見ていた…、何んて話をしておりました。
 それは、戦後、キャサリン・アイオン・キティなる大型台風が群馬の全域を襲い、関東各地で膨大な被害を出した台風なので、記憶にある方々も多いいと思います。
 その時、荒砥川が氾濫し、多くの犠牲者が出ました。現在、荒砥川を渡って大胡から宮城方面に上って来る川の両側に、数メートルの高さの石垣が積まれていると思います。この護岸工事に駆り出されていたのです。
 私の小学生時代の恩師・北爪幸作先生も、群馬大学の学生時代、アルバイトでこの護岸工事に出た、何んて言う話を私達に話してくれた事が記憶にあります。
 この川、江戸時代は「湯の沢川」と称し、百年に一遍位の割で氾濫を繰り返しています。災害は忘れた頃起きると…!
 青兵の話も既に過去のものと成りつつあります。こんな事語る人、よっぽどのジーサマなのでしょうか??

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[荒砥川]

2006年04月20日

●「赤城南面千本桜まつり」終了のお知らせ

 4月20日(木)午後5時をもって、赤城南面千本桜まつりは終了となりました。
 桜まつり終了後は、ライトアップ、ぼんぼりの点灯は行われておりませんのでご注意ください。
 なお、桜まつりに伴う交通規制は、午後5時以降すべて解除となりますので、その後に千本桜にお越しになる方は、千本桜野球場駐車場又は国道353号線南駐車場をご利用ください(無料)。

 本年もたくさんの方のご来場、誠にありがとうございました。

●赤城山の花々

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桜の事ばかり気にしていたら「ヤシオツツジ」が満開でした。
忠治温泉から赤城温泉迄の道中いたる所で咲いています。特に「獅子ケ鼻」の対岸、こんもりした岩山には沢山咲いていました。忠治温泉裏に有る「染井吉野桜」は未だ咲かず…何んです。

2006年04月18日

●よもやま話「枡形遺跡」

 先日、「桜守の会」で山桜の苗を植える作業があり、出掛けて行った。丁度そこは少し高台になっており、そこに商工会寄贈のモニュメント「舞桜」が設置されていた。その位置から真東、千本桜並木を横切った辺りに、今回新たに新設された遊歩道がある。その道は真横に進み、直ぐに直角に右折し、緩やかな坂道となっている。その直角に右折する辺りを散策していたら開削された土の中から、十円玉より少し大きな土器片が三点、顔を出していた。拾い上げて、土器片に聞いてみたら…、縄文時代早期から此処に居るのだと…の応えが返ってきた。5〜6000年前の事である。
 確かに、この所を下った、国道353下の辺りは旧石器時代の「升形遺跡」ですし、縄文早期は次の時代ですから…。今回の場所から谷を隔てた所にあるのがクローネンベルク(ドイツ村)ですが、ここを開園するに当たり、旧宮城村の教育委員会で、1993年に発掘調査を行っております。
 その結果、旧石器時代、縄文時代の遺構・遺物が発掘され、「苗ヶ島大畑遺跡」と命名されました。特に、第8号土杭内より発見された、深鉢式の土器は「鵜ケ島台式土器(うがしまだい)」と言い、縄文時代早期の、とても素晴らしい物です。その他、多くの「陥し穴」の遺構が発見されております。

2006年04月16日

●春の足立と宮城の交流会

 今年で第3回となる「足立と宮城の交流会」が、4月15日(土)、赤城高原牧場クローネンベルクのイベント広場で開催されました。
 毎年、赤城南面千本桜まつりにあわせて交流会を開催していますが、今年は満開の千本桜が220名の足立のみなさんを出迎えてくれました。
 交流会は、宮城地区の和太鼓、八木節の郷土芸能や安藤秀樹さんのライブコンサートで大いに盛り上がりました。

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2006年04月14日

●赤城南麓の桜

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[平成18年4月14日撮影]

阿久沢家住宅の桜が、今満開となっています。

阿久沢家住宅案内マップ

2006年04月13日

●よもやま話「上州弁」

 こないだ、取材していた「千本桜」の記事が上毛新聞の「三山春秋」なるコラムに載っていた。やっぱし新聞記者つぅのは、ウンメー記事書くんだなぁあ!と関心…。
 おれの乱文・乱筆じゃあ〜無理だっ・つう事が分かった。もうちっとんべー、努力しねーと…。しかし、無理だいのー、この歳じゃー。しかし、ちったー、がんばんねーと…、がんばるべー。馬鹿にゃー・馬鹿のやり方つぅーのが、あるだんべーから…。
 つぅー事で、100話ぐれー書ける、だんべーから、やってみんべーと思うんで、読むヤツも宜敷頼まいノー。
 俺の上州弁、おかしか、ねーきゃー。悪きゃー、ゆってくんない、頼まい!!そんじゃーな!!頼むデー。
 あっ、そうだ!!ブンヤさんに、源チャンと、酒屋のばーさんの事、書いてくれてありがとーよ、つぅのを忘れちゃったい。悪かったいのー。勘弁しろやーな!!
 
 死語に成りつつ有る上州弁で…書いてみました。

2006年04月12日

●赤城南麓の桜情報

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【撮影日:平成18年4月12日 15:48】

みやぎふれあいの郷の桜が見頃を迎えています。

みやぎふれあいの郷 案内マップ

●よもやま話「夜泣石」

 子供の専売特許は、「夜泣き」と「寝ションベン」! 今の子供は違う?! スミマセン・・・昔の事しか知らないもんで!
 前回、寝ションベンには「サクラ肉」が良いとの事を書きましたが、今回は「夜泣」についてです。
 直るんですか?夜泣が? それは分かりませんが、千本桜見学の帰りに、苗ヶ島町にある「夜泣石」にお参りして見ては如何!!
 ドイツ村の信号を粕川町方面に南下、右側に養豚場が一軒、暫くして、もう一軒。今度は、左側に一軒あります。その三軒目の養豚場の斜め前に大きな石があります。そこが、苗ヶ島の「夜泣石」です。
 別名「金時の足跡の石」とも言われ、大石の中に子供の足跡状の小さな穴が開いて居るので、その穴は金時が歩いて開けた穴だ!!と言われていたのです。それ、本当かどうか知りません…事実かどうかは…。
 願を掛ける時は、「夜泣を直して呉れるなら、「御酒スズ」を差し上げます」と念じます。(細竹を15センチ位に切って、その中に酒を入れたのを2本用意し上げます。そばに生えている木の枝に吊して置きます。)
 夜泣石なる物は、昔は各部落にあった筈…古老に聞いて見ては如何…?!

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[夜泣き石(苗ヶ島町)]

2006年04月11日

●よもやま話「桜肉」

 「桜肉」・・・馬の肉の事です。桜のシーズンの4〜5月頃が最も旨いので、桜肉と言われる様になったとか?、切り口が、ピンク色・桜色をしているのでこの名が付いたとか言われております。
 昔の宮城村では、豚は飼われていなかったとの事。無論、豚肉は売られていたろうが、高くて買えなかったらしいです。
 行商人が背負って「桜肉」を売りに来ていました。しかし、農耕用の年老いた馬の肉で、硬くて旨く無かったとか。しかし、寝ションベンに特効ありと、なんせ、昔から馬肉を食うと体が温まるとの言い伝えがあります。そんな話を、苗ヶ島の古老から聞いた憶えがあります。

2006年04月10日

●輿懸の森(神事)

 平成18年4月9日(日)、柏倉町の前橋市指定史跡「輿懸の森(おこしかけのもり)」において、恒例の神事関連行事が行われていました。
 場所は、赤城神社参道松並木の始まる少し手前の森の中です。以前は、松が生い茂る林の中にありましたが、ここ数年、松食い虫の影響で往時の面影が無くなってしまいました。
 この行事に付いては、私が書くと話が長くなるので、旧宮城村教育委員会が発行した「宮城村の文化財」と言う小冊子に簡略した説明文が掲載されているので、それを引用させてもらいます。

 「毎年4月と12月の初の辰の日に柏倉地区の阿久沢家の人々は、わら宮を建て、まわりを掃き清めて、前橋市二之宮町から三夜沢へ向かう神衣(かんみそ)を安置するならわしをもっている。「赤城太神宮御鎮座略本紀」によれば、この日(4月と12月の初の辰の日)は、二之宮では蚕と木綿(ゆう)の祭りで、木綿を作る人と機(はた)を織る人がいて、神衣を制作したとある。」

 ちょっとわかりづらいでしょうか? ゴジンコウサイという祭りは、二之宮から大胡神社へ寄り、休憩場所として、ここえやって来ます。そして赤城神社へ向かいます。昔は徒歩でしたが、今はマイクロバスです。
 写真は一行を阿久沢一家の人々がおもてなしをしている所です。
[情報提供:宮城地区住民の方]

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●苗ヶ島町桜まつり*金剛寺の桜

平成18年4月9日(日)、苗ケ島町の金剛寺で盛大に桜祭りが行われました。
 参道には昨年に引き続き「フリーマーケット」が出店され、往時の姿を思い起こし、涙する年寄りの方が居りました。
 参道の桜も境内のしだれ桜も、それはそれは美しく咲き誇って居りました。祭りは夜まで続き、踊や自慢ののどを競う歌声が、夜遅くまで聞こえておりました。
 そうそう、17時頃には大鍋で作られた豚汁が、皆さんに無料で振る舞われておりました。制作者…?勿論、婦人会の方々の労作です。桜祭りは自治会主催です。
 桜は今が盛りですので、千本桜の帰路にでも是非、お立ち寄り下さい。金剛寺は「大前田栄五郎」の菩提寺でもあります。
[情報提供:苗ヶ島町住民]

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【金剛寺垂れ桜 平成18年4月10日(月)撮影】
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金剛寺案内マップ

2006年04月09日

●赤城南面千本桜まつり

 平成18年4月9日(日)、赤城南面千本桜で郷土芸能によるイベントが行われました。
 和太鼓、よさこい踊り、八木節、だんべえ踊りが、残念ながらまだ1分咲の桜の下で繰り広げら、お花見客のみなさんと春のひとときを楽しみました。その熱気で桜の花も開いたことと思います。

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2006年04月08日

●よもやま話「千本桜には「サクラ」は居ない?」

 いよいよ、今年も7日から千本桜のお祭りが始まりました。流石に初日は出足もまばら・・・。
 まあ、桜もチラホラって言う感じ何んで、仕方がないが・・・でも、明日は雨?・・・なんて予報もあるので、少し心配!!何故そこまで心配するかって?そりゃあ、主催者側に立って見ると、色々と掛かりがあるので・・・!
 でも、この時期降る雨の事を「桜雨」と言うそうです。昔からそう言う言葉があるくらいだから仕方無いですかね。ガマン・我慢・ガマン、自然には逆らえません。
 あっ!!表題の事ですね。そうなんです、千本桜には「サクラ」はおりません。祭りにはテキヤ(露店商)は付きものです。出店が無いと祭りの賑わいも半減ですよね!!聞くところによると、仲間内の「シキタリ」とかで、売る物も勝手に決められないとか・・・あるんですね。その世界、世界で。
 「フーテンの寅さん」の映画を見ていたら「タンカバイ」なる手法で商品を売って居る場面がありましたが、売人の回りの人だかりの中から、それ!買おう!と声を掛ける人の事を「サクラ」と言うそうです。永年、千本桜に携わっておりますが、ご当地には「サクラ」は居ない様です。商品が違うせいですかね?
 私も昔、浅草の浅草寺境内で見た事あるんですがね・・・。フーテンの寅さんも他界してしまったからですかね?

●大胡赤城線の開通のお知らせ

主要地方道大胡・赤城線が開通となりました

冬期間、通行止めとなっていました、赤城温泉入口(前橋市苗ヶ島町)~小沼地先(富士見村)約9.1kmが、平成18年4月7日(金)、開通となりました。

2006年04月07日

●よもやま話「タンポポ」

 もうじき野山を埋め尽くす黄色い花!と言えば「タンポポ」ですよね!余り生えて欲しくない雑草と言って良いかも知れませんが、子供の頃、よく白い綿毛みたいなのに、フッ・ット息を吹きかけ飛ばした記憶が鮮明に脳裏をかすめる事、ありませんか?
 田舎の子供達だけの記憶かな・・・多分そうだと思います。でもこの雑草?「苦い野菜」と称され、上手に料理すれば全てを食す事、可能デアリマス。勿論、全てですから、根まで含めてです。「根のキンピラ」、「葉と茎の佃煮」、「葉や花のテンプラ」等々に利用可能ですのでお試しあれ。
 話は変わりまして・・・昔読んだ「骨董品の絵の真贋?」に関する記述にタンポポに関する話が出ておりました。
 江戸時代前の古い掛け軸の絵が持ち込まれ、専門家が真贋の判定を依頼されたが、なかなか判定が出来なかったそうです。真贋を判定する場合、当時の紙とか絹本が使用されているか、絵の具が当時の物か、人物が描かれていれば、その当時の衣服を身に付けて居るとかの時代考証の調査をもするそうですが、その点は全て適合していたそうで、専門家の学者の先生方も本物であろうと結論づけたそうです。しかし、その絵を見た植物学者が、そこに描かれていた「タンポポ」を見て、そのタンポポはその時代日本には無い筈・・・西洋タンポポであると。贋作者も他の事には造詣が深かったが、植物には無知であった?ので見破られてしまったと言う話が載っておりました。
 桜もしかり、もし幕末以前に描かれた「観桜の図」に染井吉野桜の絵が描かれていたら、それは贋作と言う事に成る訳ですのでご購入の節はご注意を!!。

2006年04月06日

●宮城地区の桜情報

宮城総合運動場にある「高遠コヒガンザクラ」が今満開となっています。
たけのこタワーが目印です。

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宮城総合運動場案内マップ

2006年04月05日

●よもやま話「桜の話 ー第3話ー」

 またまた、桜の話を・・・!
 観桜・桜の花びらを喰う・桜の木を使うから、飛んだ「桜花」の話です。
 確かに、桜の花びらは散るとき、風にのって高く舞い上がりますが、悲しい・悲しい「桜花」の話を・・・。
 もう十数年位前ですか、沖縄に駐留している、本県出身自衛官を激励する目的で、航空自衛隊のC1輸送機に乗り、沖縄入りをした事があります。出発地は埼玉県の入間基地でした。基地の建物の中に「桜花」は展示されておりました。そうです、特別攻撃機、つまり特攻機の事です。この飛行機はドイツの誇る戦闘機・メッサーシュミットMe262を元に設計され、日本で最初のジェット戦闘機に成る筈でした。しかし、既に戦況は悪化・・・本土決戦用の特攻機に変えられて行ったのです。全長6Mの機体に1200kgの爆弾を搭載して突っ込むのです。特攻機なので車輪は付けて無かったそうです。自力では飛行出来ないので、一式陸攻と言う大型機にぶら下がって行ったとの事。乗員は一人。九州の基地から沖縄へ飛び立って行ったんだそうです。
 アメリカ軍は、この桜花の事を「BAKA BOMB」馬鹿爆弾と言ったそうです。
 桜の花の話で、一番悲しい話であると思います。桜の花の様に散れと「軍人」は教育されたそうです。

2006年04月04日

●よもやま話「桜の話 ー第2話ー」

 今日、みやぎ桜守の会長さんから、新聞社の記者が取材に行くから、千本桜の由来を話して欲しいとの連絡が入り、暫くして、本人から、これから伺いたいとの連絡がありました。乞食スタイルで、大工仕事をしている所でしたが、仕事を続けてやっていたら、やって来ました。変な姿を見られてしまいました。本当はスーツ姿で対応したかったんです。何んせ、取材ですよ!!そんな機会、滅多にありゃぁしませんからね!
 まあ、そう言う訳で、延々とご説明いたしました。口から泡を吹き出しながら・・・です。これから、宮城地区、各所を取材して良い記事書くと帰って行かれました。取材されたので、興奮して取り留めも無いこと事を書いてしまいスミマセン。
 お詫びに桜の事を一行ほど・・・。前回は、桜の花を食す話でしたが、今回は、桜の木の話で行きます。桜の木(山桜)と言いますと「ナメコ」を直ぐ連想いたします。可笑しいですか?
 ナメコを生やす原木は桜の木なんです。桜の木の原木にナメコ菌のコマを打ち込んで生やすんですが、最近はそんな面倒な事しないで、全て工場生産のようですが、本当はその方がずーと美味しいんですが。
 その他、江戸時代には「版木」に利用しておりました。版木って?「紅葉錦…」の項で紹介した印刷物を刷る原版です。皆さんも年賀状等を木の板に彫った記憶ありませんか?それです。
 その他、樹皮をタバコケースに張ったり、色々の細工物に利用していました。最近の人は知らないでしょうが、昔は結構一般的に使用されていたんです。
 あっ、スミマセン熱が入りすぎ、一行を超してしまいました。

2006年04月03日

●よもやま話「桜の話」

 桜は愛でるもの、見るもので、喰う物ではない・・・。でも、おめでたい時は「桜茶」が必ず出ますし、お節句には「桜餅」と、やはり日本人は何んでも喰っちゃうんですね!!
 桜茶は「桜の花びら」を塩漬けにして保存し、一年中利用できますが、慶事以外には飲みたくないですよね!!。
 桜餅に利用する桜の葉は、千本桜(染井吉野)の葉では駄目なんですって!!何故って?葉の裏側にケバがあってゴワゴワして喰いっ事に成らないらしいんです。じゃあ、何んの桜の葉かといいますと「大島桜」の葉を使うんだそうです。静岡県の農家で栽培しているとか聞いた事があります。50枚一束にして塩漬けにしているそうです。そうそう、桜の木は丁度桑の木の様に、余り大きくしないらしです。
 最後に私の秘伝を伝授?しましょう。「桜の花のジャム」作りを・・・但し、染井吉野桜より、「八重桜のハナビラ」が適しているかも・・・。
 実は赤城南面千本桜並木に1本八重桜が植わっているんです。何処かって?。教えられません!!。でも、小さな声なら・・・他言無用に願います。桜並木内に整備された遊歩道を過ぎて、やや進んだ坂道の途中右側です。探してみてください。
 あっ!ジャム作りの方法でした!八重桜の花を水でさっと煮る(中火)。水を少しこぼし、グラニュウ糖とレモン汁を加え弱火で煮詰める。もっと詳細に知りたければ、要指導料ってな事に・・・。

2006年04月02日

●よもやま話「餅草の話」

 4月2日(日)、千本桜まつりの準備で現地へ。仕事の合間を利用して、ちょいとサボリ、土手に生えている「餅草摘み」。里では既に大きく生育している餅草も、この辺では未だ生えたてでした。皆んなに、「何をするんですか」と尋ねられましたが、答えは「よもやま話」のネタと答えました。
 子供の頃から、「ヨモギ」と言うより餅草と呼んでいたので、この名前の方が親しみがあります。ヨモギとは四方に根茎を伸ばし繁茂するので、このような名が付いたと言われているそうです。勿論、餅草の由来も、字の如くであります。
 今から43年位前、よく沖縄に行っておりましたが、その頃、知り合いの「棚原のウンメー」(おばあちゃん)から餅草の話を聞きました。
 戦前、沖縄にも地域によってはマラリアに感染する事があり、そうした時には、餅草の青汁を飲ませると良い、との話を聞きました(それっきり頼る物が無かったようです)。ヨモギの青汁には、解熱作用があるとの事です。その当時、キニーネ何んて薬、庶民には手に入りませんもんね。
 沖縄のヨモギは本土のとは種類が違い、ニシヨモギ(方言でフーチーバー)と言いますが、薬効は本土のと変わらないと思います。その他、臭い消しに特効ありとか。沖縄では、賓客が来訪した時、ヤギ料理を出しますが、そのヤギの臭い消しにヨモギを利用します。

2006年04月01日

●よもやま話「赤城升形遺跡(千本桜周辺)」

 平成18年3月21日の朝日新聞・文化総合欄のページに「旧石器考古学と芹沢長介氏」(日本列島の歴史を追い続けた)との死亡追悼記事が載っていました。その記事の中で、日本で初めて旧石器を発見した相沢忠洋さんと笠懸の岩宿遺跡に立つ芹沢先生の写真が貼付されていました。まさに、芹沢先生こそ相沢さんを世に認めさせた方であります。
 その相沢さんが発掘を指揮したのがこの「升形遺跡」であります。(宮城村史の285ページに詳しく掲載されています。)
 発掘は岩宿遺跡が発掘されて間もない昭和26年9月に、群馬大学・尾崎研究室の協力を得て行われています。そして、岩宿遺跡の石器グループと別の石器グループの存在が判明と・・・。
 発見の端緒は苗ケ島と粕川出身の仲良し高校生、二人によってと漏れ聞いています。当時の考古学好きの高校生も一人は鬼籍に、一人は未だ健在であります。
 あっ!そうですね、場所は千本桜入り口の反対側、国道353号線を渡った下の駐車場の一番南、道路反対側に白い文化財の標柱が杉林の中にあります。駐車場を含めたその一帯が遺跡であります。
 筆者が子供の頃、今の千本桜野球場のグラウンド(千本桜まつりの期間は駐車場であります)の辺り一帯は、刑務所の畑で、冬の木枯らしの吹いた後、畑の周辺を歩くと赤土に染まって乾燥された「白い石器の破片」が顔を出していました。

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