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2006年12月23日

●よもやま話「豊嶋源右衛門」

 先般、大胡地区文化財指導員を務められている茂木允視先生から、こんなお尋ねがありました。医師会の依頼で、この地区のお医者様の事を調べていると…現在の??いえいえ昔・昔の話しでありますと…。
 先生の話の中で、馬場出身の医師に長岡英斉と言う方が居られ、大間々で開業しており、新里等の学校で校医を勤められていた…著名な方であったと…、その息子に長岡平吉と言う子供がおり、医学生の頃に亡くなった…長岡輝司さんを尋ね墓地等を見させて戴いたが不明な点が多く、東宮さんが何か存じていれば??との要旨であった。
 また、他の医師の事に付いて教えを乞いたいと…。馬場には豊嶋源右衛門と言う名の医師がいた話しをしたが、余り足跡が無いので調べられない旨の話しも会話の中で出て来た。
 この両名の事に付いて何か手掛かりが無いか、金剛寺所蔵の過去帳を調べて見る事に…。幸い長岡家・豊嶋両家とも金剛寺の檀家であった為に没年等の記録が出て来た。
 その後、墓石等の確認をしたら、過去帳の没年と墓石の没年に違いがある物があったが、記載されたままを書く事とします。
 先ず長岡英斉に付いては過去帳の没年は明治42年3月27日と記され、戒名は真照院英智居士と、平吉に付いては明治14年8月7日没、長岡英斉弟と、戒名は盛山道覚居士とあった。息子か弟か??私には判別出来ない…が、前後の事から考えると、弟と言う方が…。
 豊嶋源右衛門については、先ず村史に記されていた「豊嶋源右衛門(医師)文化6年~明治20年 読・書 300人 馬場75-1」から入る事に…。
 金剛寺過去帳には、明治20年7月31日没、馬場村 源右衛門 事 戒名豊嶋賢孝教信士とあった。更に、過去帳を調べて見たら、豊嶋ヒロと言う名が出て来た。大正11年、渋川にて没、夏山妙廣大姉、本籍地馬場307戸主と載っていた。取り敢えず、馬場の307番地を調べる事に、現地に赴いた所、そこは現在の堤市郎氏宅であった。本人不在の為、東の畑に出て見たら、井上浩さんが農作業をしておられたので、ご指導を仰ぐ事に…。豊嶋家の母屋は解体され、市之関の現・阿久沢一郎家へ移築され、30数年前まで使われていたと。墓地は小林自転車の裏手にあると懇切丁寧に教えて下さった。帰路、堤家の前を通ろうとしたら、堤御夫妻が帰宅…子細を説明した所、番地の事、古井戸があり、素晴らしい切石積で出来ている等のお話を伺う事が出来た。お宅に上げて戴き、色々な世間話に花を咲かせ楽しい一時を過ごす事が出来た。
 その後、墓石を調べさせて貰う。
 墓石の横には明治20年7月30日没、行務 医師 豊嶋純平                                 書生 年齢八十有五歳 と書かれていた。
墓石台石には 
 當処世話人
 井上彦市 長岡弥右衛門 田村和藏 井上仙藏
 室沢世話人
 松島宅次郎 石川長次郎                    
 苗嶋世話人
 前原与三郎 上野健次郎

当所
 井上元吉 鹿田政之助 田村国三郎 鹿田匡助 井上伴助 小林タエ 小林利助
 堤吉藏 吉澤喜曽太郎 吉澤要次郎 北爪只之助 堤駒吉 
 山上村
 萩原真助 
 野村
 糸井喜助
 苗ケ嶋
 石橋久助 石橋丑五郎 前原卯之吉 井上金五郎 金子喜太次
 室澤村
 北爪美代吉 北爪長太郎 石田栄太郎
 板橋邨
 板橋房吉 星野茂三郎 
 勝澤邨
 鈴木太市
 月田村
 金井太兵衛 鎌塚久太夫 井上甚次郎 鎌塚右馬吉 石橋平左エ門 
 来客世話
 阿部耕田

 また隣には奥様の墓石があり、豊嶋純平妻 行年五十九 文久二年九月九日と刻まれていた。
 長岡輝司さんにお聞きした所、前橋に子孫の方が居ると言うお話を伺ったが、墓地にその痕跡を見い出す事は出来なかった。また金剛寺の過去帳もしかりである。
 源右衛門の先祖とおぼしき墓石も墓地には見当たらず、馬場の豊嶋姓が何処から来て何処に消えたか、誰も知る術を持って居ない…。
 何れにしても、斉藤多須久、小池文七郎等と同じ時代を生きた同輩であろう。