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2006年04月29日

●よもやま話「赤城神社の松並木」

 慶長17年、大前田村の川東彦兵衛が松苗を太田金山より取り寄せ、植えられたとの記録が、社家の記録に残って居ります。しかし、江戸時代、赤城神社参道松並木との呼称はされて居ますが、その所有は領主に、つまり、御領地(官地)になっておりました。
 その松の管理は野付四ケ村、三夜沢村・鼻毛石村・苗ケ島村・柏倉村の四ケ村が秣場(まぐさば)として、並木の手入れ、風倒木、枯木、植林管理・道路管理の仕事を請負、役所に毎年管理状況報告を致しておりました。
 しかし、明治23年、郡長から、県の指令により「並木枯損木」の無代価払下げの通告がありました。つまり、明治22年に、七つの大字が集まり、宮城村が誕生したからであります。
 そこで、否、これは旧来の四ヶ村の権利である。否、これは村全体の権利であるとの紛争に発展し、紛糾していくのであります。
 明治32年には、払下げの手続きを富樫竹治と言う弁護士に成功報酬を条件に依頼しました。条件は成功した時は収益の半分を、不成功の時は一切無しでした。
 さて、払下げ決定に際し同弁護士は、収益は1万円であるから、報酬額は5000円であると。並木の立木全部を売却しても払えない程の膨大な金額でした。結局、4462円余を支払う羽目に成ってしまいました。その後、郡長に評価額をお聞きした所、1074円余であると・・・、ですから、その半分の537円余で良いとの返事。しかし、後の祭り、既に、支払い済みに・・・!
 当時の村長及び関係者はその責任を問われ家屋敷を売却したり、大変な騒動に発展して行ったのです。その事件を契機に、村有財産として村民全体で手厚く管理運営をして行くのです。
 明治40年には大々的に松の植林を行います。そして、成長した松は、敗戦後の学校建設及び役場建設に多大な貢献をするのです。そして、松並木は赤城神社に渡されて行ったのです。
 この事件の顛末に付いては、東宮六郎治が詳細な記録を残して居りますが、簡略された記録が村史751ページに「並木事件」として掲載されております。
 なお、松並木の根元に生えているツツジは、元々この一帯の山野、何処にでもに自生しておりました。しかし、毎年、刈り払われ、焚き付けの材料として使用されていました。しかし、時代と共に、用途を失い成長するに任せる様に・・・!
 咲けば綺麗ですし、今度は、補植してくれる人も出て来たり・・・。
 その事に付いては、三夜沢の人の話が伝わっております。昔は、自生のツツジは無価値・雑草と同じ位だったんです。評価は時代と共に変わるらしいです。

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