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2007年05月05日

●赤城神社奉納武道大会

5月5日(土)こどもの日、第20回赤城神社奉納武道大会(前橋東部商工会主催)が赤城神社境内で行われました。
赤城神社の独特な雰囲気の中で、空手、剣道と子どもたちの真剣な対戦が行われ、見ている私たちもその雰囲気に飲み込まれてしまいます。

第20回赤城神社奉納武道大会第20回赤城神社奉納武道大会

●よもやま話「田島一族の紐解」

  大前田英五郎の足跡を追って、田島家の墓地を調べ、金剛寺の過去帳と照合しながら、そのルーツを追っていたら、迷路にはまり込み、抜け出せなくなってしまいました。
  たまたま、支所に出向いたら、大前田の後藤一さんに行き会いましたので、色々質問をぶつけて見ましたところ、大変な収穫に相成りました。
  田島家墓地南端の主は、現在赤堀にいらっしゃるという事を教えて戴きましたので、早速お手紙を書きファックスで送らせて戴いたところ、直ぐに返事が届きました。送った手紙と、ご返事はこのよもやま話に掲載させて戴く事とになりました。
  そのお手紙を元に調べてみたら、宮城村創立期の書記を務められたのが、田島先生の曾祖父である、田島義方さんであり、その前年の明治21年2月23日より、鼻毛石村外四ヶ村の戸長を務められていた事も判明いたしました。そして、義方さんのお父さんである、義賢さん(神官)は大前田で天保14年より〜明治20年迄、塾(読書・算盤)を開き、筆子の数は200人余であったとの記録がありました。

  草創期の宮城村役場の組織は
    村長  東宮 六郎治 明治22年5月就任
    助役  前原 秀雄      同
    収入役 大崎 藤次郎     同 
    書記  田島 義方  明治22年5月25日就職〜27年4月
    同   北爪 嘉重郎   同  6月5日 就職
    同   長岡 国太郎   同  6月8日 就職 
  これらの人達で、それぞれの事務を行っていたとの事です。

  祖父の義男さんも、明治43年9月1日〜大正2年11月17日、大正6年1月31日〜大正6年11月19日、大正11年10月31日〜昭和5年11月4日の期間、役場書記を勤めております。これは7代村長・阿久沢友次郎、8代村長・東宮徳次郎(筆者曾祖父)、9代村長・長岡朝太郎、10代村長・小池一郎、11代村長・前原勝馬、12代村長・阿久沢源吉、13代村長・北爪徳衛に至る7人の村長に仕えた事になります。
  辞められた昭和5年と言う年は、以前このよもやま話の中で書いた「減俸騒動」が起きた年です。恐らく、その事に起因して職を辞したと考えられます。
  縁(えにし)と言うものが如何に不思議なものであるのかを実感したしだいであります。
  北爪和男家の離れから始まり、我が曾祖父の父、初代村長・東宮六郎治へ、そして田島先生の曾祖父へと、限りなく糸がもつれ合いながら繋がって行くと言う不思議さ…!
  何よりも驚いたのは、元禄4年に112歳で亡くなられた大法寺の老母様まで続いているとは何と摩訶不思議な事か…!
  調べれば調べるほど摩訶不思議な事です。

[送った手紙(一部省略しております)]
  突然のお手紙で申し訳御座いません。私は一昨年より、赤城南麓交流村のホームページに「よもやま話」と言う取り留めもない宮城地区の昔話を投稿させて貰っております。その中で、大前田の田島英五郎の話や、妹等の話しを中心に少々書かせて貰っております。
  さて、前橋市の文化財指導員として、毎月田島家の墓地を訪れています関係で、田島家に少々興味を抱き調べさせて貰いましたところ、段々分からなくなっていきまして、つまり、田島家は本家・新宅のみと思っていたのですが、もう一家ある事が分かりました。大前田の人に聞きましたら、赤堀に子孫の方が住んでいるとの話しを伺い、先生にたどり着いた次第です。私の家は苗ヶ島の金剛寺と言う寺の檀家でして、田島家も明治迄は同じ金剛寺の檀家でした。金剛寺の過去帳を整理した関係で、少しだけ謎解きが出来る立場におります。過去帳と墓石を照合していますと、色々と判然としない部分が出て来まして、どうしても先生のお力が必要になって来た次第です。ご興味が無ければ仕方の無いことですが、大前田からどのような経緯で、現在地に移ったかの経緯や、先生が知り得る御先祖の事が分かれば有り難いのですが、宜敷お願い致します。

[送られてきた手紙(一部省略しております)]
  当方の患者に宮城村出身の女性がいて、「宮城から出た田島さんだよね」と言われ、更に私の家は「宮城の根っこだね」と言っておりました。しかし、祖先のことに関して肝心な申し送りを受けないうちに父が他界しましたので、小さい時から聞いていた事以上のものは申し上げられませんが、ここにお伝えいたしますので参考にしてください。
1 当家は代々長男で続いている家系で、どこかの分家ではありません。(但し17世紀以前は、はたしてどうであったかは不明ですが)
2 江戸時代には、神仏混交の寺をしていて、大法寺という名前でした。これは、僅かばかり残っている書付に、そう記されていますので間違いありません。昔は金銅仏があったそうですが、明治になってから処分したのか、誰かに譲ったのか、所在不明となっています。今、家には小さな寄木造りの行者様と、壊れた不動明王とほら貝しか昔を伝える物はありません。このことから、寺とは言ってもどこかの末端修験ではなかったのかと推測しています。
3 江戸時代末期の頃(中期以前は不明)、自宅で寺子屋をやっていた。
4 江戸の頃と思いますが、大人になると(元服すると)京都に上って地恩院に行ったそうです(事実かどうかわかりません)。何をしに行ったのかは不明です。
5 大前田から出たのは、私の曾祖父・義方で、宮城の官撰戸長や議員、前橋で新聞社をやったり、最後は東京に出てどこかの美術館の館長をしているときに没しました。多彩な人であったようで、宮城下の器量人と言われたそうです。祖父・義男は、宮城村に勤め、確か総務課長か何かであったようですが、「宮城を良くするには子どもの教育を高めることが重要で、そのためには"良い教師”を招くことが必要である。それゆえ、教師の賃金を上げ、優秀な教師を呼びたい。」という考え方を持っていたそうです。しかし、当時の村長と、これらの主張を含め様々な点で意見が合わず、ここにいても意味がないということで職を辞し、桐生市に出ました。そして、桐生市役所に奉職し、市長公室長(確か前原市長の頃だと思います)を勤めました。父・義泰は大戦から復員後、県職員となり、私義博は医師となり縁があって旧赤堀町で医院を開業し今日に至っています。
6 父が言うには、大前田英五郎と当家は関係はない。

  以上の如くであります。そろそろ自分の家のルーツ探しを始めるべく、まずは修験について知ろうと本を読み始めていた矢先に、あなた様からのご連絡があり、大変驚きました。良い機会でありますので何かわかりましたらご教示ください。