●よもやま話「関口文治郎の欄間と赤城神社」
榛名神社、妙義神社の豪華絢爛たる彫刻、そして苗ヶ島町金剛寺の欄間を手がけた関口文治郎の彫刻で有名な桐生・天満宮。
当時の名工とうたわれた石原常八(花輪出身)が手がけた板倉の雷電神社、それから大室の産泰神社等々、枚挙に暇がない程の神社仏閣の彫刻が江戸期には盛んに彫られています。花輪、黒保根からは多くの彫り物師が江戸城を始め、関東各地で活躍して、その名を天下に知らしめていました。
しかし、三夜沢の赤城神社はどうであろうか?彫刻は全く無く、質素と言っても過言でない造りであります。何故?
それは明治政府による国家神道と廃仏棄釈の宗教政策によるもので、神社は平安時代か鎌倉時代の復古的様式で建て替えられて行くようになったからであります。西洋列強の植民地主義に対抗して富国強兵の統一国家建設を早急に建設する必要に迫られた明治政府は、菊の御紋章をその中心飾りとしていく方針を採って行くのであります。
復古神道の教えを忠実に守って赤城神社再建に尽くしたのが、斉藤多須久等であります。本殿が伊勢神宮を模している理由でもあります。
明治期の建造物としては県下で最も早く県指定に成ったのはそのような理由かもしれません。
廃仏毀釈の影響は神社仏閣をお得意先とした彫刻師集団にも多大な影響を与え、以後その活動は衰退していくのであります。
[苗ヶ島町の金剛寺の欄間]
[金剛寺の欄間の内、左から「楊香(ようきょう)」、「老采子(ろうさいし)」、「唐夫人(とうのぶじん)」