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2006年08月30日

●よもやま話「大崎」

 前橋市江木町の町田家に大胡西領(大胡・城南・桂萱を言う)の草分けを書いた古文書が残されている。その中には大胡東領(新里・粕川・宮城)の草分けも一部書かれている。
「草分けとは、初めて荒れ地を開墾する事。また、その人との意なり」
 町田家は江木の草分けであり、また明治迄、この地方の修験の元締的な家(快乗院と称す)であった。
 慶長七年巳ノ正月日、当所在草別略の一項に「慶長二酉正月ヨリ快光房尊栄上人、右之者周防国ヨリ来大胡御城主牧野様へ相勤居候処江木之一村開発被仰付御墨印拝領仕、江木村へ出 右壱村草別開発仕候 同年七月廿日快光坊実子泉光院両人罷在尊栄無妻 柏倉村之御侍大崎隼人之娘呼取也」と、柏倉の侍、大崎隼人の名が出てくる。
 柏倉村の項では「大崎隼人・深津修理・其外 六本木・阿久沢兵庫・北爪・松村・次に大崎の末弟 合七人・後藤・高橋是は市之関に住す」
 この文書には、上記の快光坊の事が書かれている。「大胡町より出快光坊 定紋芦に月 替紋おもたか 同人妻柏倉村大崎隼人娘也 同人一子仙光院 妻 那波郡二良塚村町田右仲娘也 右四人二而此所二住ス此本家公田村二有尤牧野駿河守様御取立」
 奈良原家(赤城神社)所蔵の中世文書の中に、上杉謙信配下の北条丹後守高広が永禄九年(1566年)に三夜沢神主奈良原紀伊守に宛てた書状に大崎次郎左衛門の名前が出てくる。
 大崎家の屋敷は堀を廻らした、中世の砦の様式を今に残している。当主は代々重郎を名乗り、この地の名主を務めていた。戦国期には北爪・阿久沢等々の近隣の土豪達と功名を競っていたことでしょう。現在の当主も剣道の達人である。先祖の血がそうさせているのであろう。

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