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2006年12月29日

●よもやま話「30年後に所在が判明した本」

 この本が消えて既に30年近く経つのでは…。
 その頃、前橋西武デパートの5階だったと思うが、催事場で古書市が開催されてていた。昔から、古書が好きで東京神田の古書店をハシゴして、安くて良い本を見付けた時の喜び…、古書市と言う活字が目に入ると、ついそちらの方に足が向いてしまう。
 その時は、「赤城火山??…震災??」と言う題名の本であった様に記憶している。とにかく、明治30年??…その頃、こんな火山の研究が!!これは欲しい!
 価格を見たら「2万円…か〜高え!!」でも欲しい…と手を出してしまった。手に入れてしまうと…余り中身を見ない…。
 ちょうどその頃、旅館組合の青年部活動と称して、前橋市内の飲屋を徘徊していて、群馬県観光公社の河野氏と同席。その折り、今度赤城山頂にビジターセンターを作るんだが、赤城山に関する物が集まらなくて…何んて話が出た。実は…先日、西武でこう言う題名の本を購入した!!と話したら、是非貸して欲しいと言う事になった…てな訳で貸したのが後の祭りである。その後、何んの話も無く数年が過ぎ、河野さんに、あの本は??と尋ねたら…何処かに行っちゃつた!!ガ・ハハ!!と言う笑いと共にその話は終わってしまった。河野さんと言う人は、豪快な性格な人で、その人柄に惚れているので、余りその事に付いて追求せずに今日迄来てしまった。
 5・6年前、桜井元宮城村長の自宅へ小寺県知事が来訪(蕎麦を喰う会だったか)。その折りに久し振りに河野氏に再会、でもその話は持ち出さなかった。平成元年頃、「赤城山に温泉を!!清水元県知事が赤城に温泉が出た夢を見た!!」何んて話が出たので、地元赤城温泉郷は過去の経緯に依り大反対の狼煙を上げ、県企業局と長い闘争が…、7・8年の長きに亘る協議の結果、当時の宮城村長・松山雷司氏(故人)・群馬県信連副会長・阿久沢嘉重郎氏(故人)・温泉協会会長・木暮金太夫氏(故人)の仲介に依り、平成8年和解。平成10年、温泉掘削が開始され、高温泉が噴出…、しかし使用不可能な泉質のため利用中止へ。
 平成11年9月、「赤城山頂カルデラ内南縁の地質並びに温泉調査」の報告書が企業局から発刊される。当時、掘削を担当した元企業局参与の倉沢辰巳氏よりこの本を頂戴。書庫の中で深い眠りに…そして本年、読んでいたら、62ページの参考文献等の最上部に(1)斉藤譲(1898年・明治31年):赤城火山地質調査報文、震災予防調査会…と言う文字が書かれていた。
 あっ!!これは??多分…だと考えられます。観光公社と企業局との繋がりを考えれば、どなたかが企業局へ持ち帰ったのでは!!やっと、本の行方が分かった…安堵の気持ちが心の底から湧いて来ました。返還請求??難しい??何んせ、企業局には赤城温泉「新島の湯井」を掘削して戴いているので、余りの事は言えないんです。でも、その経緯だけは話して置きたいですね…。

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