●よもやま話「赤城塔と了需」
「赤城塔」と称する鎌倉時代の石造物が赤城南麓、特に粕川流域に分布しています。その頃、この南麓の宮城地区に赤城了需(せきじょうりょうじゅ)と言う修験者が居たそうです。新田・世良田・長楽寺の月船和尚(後、京都東福寺八世住職、1308年没)「月船伝記・東福寺第八世法照禅師十乗坊行状」の教えを受け弟子と成り、その後、中国の元に渡り天童山で学びます。そこで住持雲外に依頼、月船和尚の十三回忌を修した事が天童雲外の書によって知られております。当時、渡海し大陸に渡る事は、時の幕府と長楽寺の関係、また京都、東福寺の関与が無ければ余人には不可能な事であり、また、了需その人が如何に認知されていたかを伺い知る事が出来ます。
それから4年後の元亨4年(1324)、了需と関係有ると思われる鼻毛石町・赤城寺の旧跡地、苗ケ島町の「宿の平」(現在忠治温泉)にこの塔が造立されます。また大前田町の世良田薬師(世良田・長楽寺との関連?)や三夜沢町の赤城神社等々にこの塔(法華経信仰を表す)が造立されて行きます。
700余年前に当時の世界第一の都に足を踏み込んで国際交流を果たした了需。この南麓に蒙古襲来と言う未曾有の国難到来の鎌倉時代に、中国に渡って学問を身につけ帰国した了需の足跡が文献により現在迄伝えられて居ることは希有の事と思います。
この秋、散策がてら南麓に有る了需の足跡を探訪してみては如何ですか。