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2006年08月23日

●よもやま話「まだある「北爪右馬之助」の軍功来歴書」

 39の首を上げた、この男の話は南部藩以外の文書にも出てくる。
 大胡町史275ページに「北爪右馬之助好豊ヲ召出シ弐百石ヲ給ス」(摘古採要四編)
 「姫路酒井家文書」四北爪大學助武功の書記の事
今の北爪弥太夫が先祖ハあっぱれの勇者にて右馬之助、又大學とも言し初め小田原北条家に仕へたり、浪人して上州に住せり、其頃当家に召し也。其時の知行は二百石なり…右馬之助か招れし時、武功を書記して出せし一巻の書あふとも志候らしく昔ゆかしけれハ爰に縮写す…。
此頃ハ専ら血臭頃なれば主取せんと志す浪人各おのれか武功を書上て召抱られし世の様なり、此北爪の家に限らず、慶長の頃当家へ抱られし家ニハ上州那波或ハ沼田又ハ大胡なんどの地に浪客あまたありて、追々に召れて五十石、或ハ百石を玉はり家臣に列する家江戸姫路給人以上の家に少なからず見えたり。また北爪の家に伝る北条家の感状或ハ知行の朱印伝馬の朱印等の古文書を伝へたり、珍らしけれハ爰に追加す。
去廿四日於足利表敵一人討捕候高名之至神妙候、弥々可走廻者也 仍如件
    正月廿八日 (花押)
          北爪大學助殿 
此度河□之地乗取就中敵一人捕候、神妙之至感悦ニ仍於女淵一所被下候郷名之儀者重而可被仰出候、弥々可走廻者也、仍如件
    九月廿五日
               (花押)
          北爪大學助

と言う事は、右馬之助は北爪宗家の息子の一人である事は間違い無い。何故ならば、宗家に伝わる北条家から拝領した武功の感状(宗家に現在まで伝来)の事が此処には書かれている。そして、その息子は弥太夫と称した。しかし、右馬之助は南部藩でその生涯を終えている…。
と言う事は、右馬之助と、もう一人の息子が南部藩に仕官…弥太夫がこちらの酒井家に、父親に給された石高で召し抱えられた??と言う話が組み立てられる?? のでは…??。
 これは江戸期の文書である、酒井家は前橋から姫路に転封になっている。きっと姫路の近辺に北爪の子孫が居るのでは??調査の要有り!!


よもやま話「39もの首を取った強者」

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コメント

子供のころ北爪と言う姓が姫路にもあると近所の年寄りが言っていたのを思い出し、数年前姫路に行く機会があり、図書館で調べていたら厩橋城から転封になった酒井城主の重鎮に北爪氏がいたと有りました。電話帳にも数十件ありました。近隣の赤穂市の市長にも北爪氏が有りました。初めてこのグロブを拝見し詳しく書いてあるので驚きました!

姫路藩酒井家の年寄職に北爪弾蔵の名があります。兵庫県には北詰姓も多いようですよ。

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