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2006年08月28日

●よもやま話「おびんずる」

 苗ヶ島町の集落センターから馬場十字路方面に向かって県道を下って行くと、道路がすこし左カーブになっています。そこには左右に細い道路があります。右に曲がると、石橋照夫さん・ち(家)の裏へ出ます。
 左カーブの始まる辺りの右側を「おびんずる」と呼んでいます。下から上がって来ると、丁度その辺りから、石橋一夫さん・ち(家)方面に向かう細い小道がありました。直進すると集落センターへ、つまり、そこは三角な場所で、草が生い茂った「猫の額」ほどの空き地があったのです。
 草むらの中には、五輪塔の残欠やら、お宮の石柱と思われる物が転がっていました。江戸時代は「おびんずる様」があったそうです。明治時代の廃仏毀釈の際、本体の石殿は金剛寺の裏庭に移されました(文化財指定)。おびんずると呼ばれた場所は、明治・大正・昭和と変わらず草に埋もれ、静かに時の流れの中で過ごしていました。しかし、20数年前、構造改善事業により、現況が一変する事に…。悲しい事でありましたが仕方の無いこと…。元老の上野丑之助(故人)さんを中心に移転計画??残っていた石造物を新設された集落センターの敷地内に移転させる事が決まり、移転させました。当日は、金剛寺の志田賢尚和尚(故人)にお願いして、ご祈祷をしていただきました。
 この「おびんずる様」は江戸時代、長岡家が管理していたそうです。東宮惇允さん・ち(家)に、こんな伝承が残っております。
 今から400年ぐらい前、東宮家の先祖・東宮六右衛門は剣術を習う為に、大胡城下に通って居たそうです。後に、上泉伊勢守より免許皆伝を授かったそうで、明治時代に倉が焼けて消失するまで大切に保管されていたそうです。六右衛門の実家は勢多・東・花輪の光明寺と言う修験道の寺の嫡男だったそうです。北条方に与した為、家を継ぐ事を許されず、若き頃、剣を習う為に通っていた折、時々、泊まっていた、「おびんずる様のお堂」に住まわせて貰ったそうです。そして、暫くして、現在の地に屋敷を構えたとの事が伝えられています。光明寺と長岡家・東宮家共に親戚関係になっております。北条家に与した多くの残党が、赤城南麓に移り住んだ伝承が残っています。我が家には由良家との関係…黒川谷の武士団の末裔なんです。この地の阿久沢一門とも、友として一緒に戦っていたので、住む事が出来たのでしょう。
 長々とスミマセン!!「おびんずる様」って??…インドの神様なんだそうです。お釈迦様のお弟子さんで、「ビンズルハラダ」と言い、中国では「賓頭廬頗羅堕」と言います。おびんずる様は小さい頃より、賢く頭のよい人だったそうです。お釈迦様に従い、出家して悟りを開き、神通力を得た。しかし、生きの身は何かと罪を作るもので、その罪滅ぼしに、自分の死後はお寺の軒下にいて、諸病を治したり、悩みを解決する事を誓ったとの事です。善光寺の本堂に入ると、この仏様がお座りになっています。お体を触り、その手で自分の体を触ると、その部分が治ると信じられ、多くの人々がお体を触っておられます。頭を触ると頭が良くなる…触った事があるので…そのせい??そりゃあ、無理・無理…まったく馬鹿に付ける薬は無い…付けるんじゃあ〜ネエ、触るんでした!!

[金剛寺の裏庭にある石殿]
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[集落センターの敷地内にある石造物]
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[構造改善事業で移転させた当時の写真]
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コメント

コメントではありませんが、
今日、群馬の両親が「前橋大島梨」を箱で送ってくれました。とっても甘くておいしいです!
秋を感じながら今日は休日をのんびり過ごしています(^^)

管理者 さま

(表示は不要です)
重箱の隅をつついてごめんなさい、
9~10行目、みごとな変換ミスに“座布団一枚!”
『はいぶつ』と『きしゃく』を区切って変換すると確かにこうなりますね♪

みやぎ乃酒呑童子 様

座布団ありがとうございました。(お礼を言いたかったので表示しました)
これからも、応援よろしくお願いいたします。

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