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2006年10月10日

●よもやま話「白山古墳の被葬者」

 最近、赤城塔を追っているうちに、白山古墳の被葬者の姿が見えてきた様な気がしてきた。
 何故、こんな辺鄙な山の中の古墳に、蕨手の太刀・和同開珎・さわりの椀等が、余りにも豪華な埋蔵品の数々が…それも、仏教色を帯びた?? その様な財力を持った豪族がこの地に…不思議であった。
 しかし、忠治温泉にある赤城塔から粕川町深津・三ケ尻の赤城塔迄を追って行ったら、途中に大前田町世良田薬師の赤城塔へ、そして、その下にある阿久沢家(大前田砦)墓地の赤城塔の塔身へ、その下は大前田栄五郎の墓地隣を流れ深津へ。
 そうなんです!!
 苗ヶ島の白山古墳(西白山神社故地)の上流部から湧き出す水は、下って深津へ。東神沢川と言います。西白山神社と現在の苗ヶ島神社(旧称・東白山神社)の中程を流れるのが石田川である。共に三ヶ尻に流れ込む。
 本来、神沢川は赤城温泉付近を流下する川の呼称である。しかし、この東神沢川は同一河川では無い。しかし、古代の人々は源流は同じと考えた??
 確かに、東神沢川の源流域上部には神沢川の本流が流れている。浸透水がそこから来ていると考えてもおかしく無い。この川の呼称に付いても、何故、神の沢??カンザッカワと??
 しかし、現在、荒山と湯之沢・薬師の滝付近を源とするこの川は荒砥川と呼ばれているが、今でも地元の人はカンザッカワ(神沢川)と呼んでいる。
 荒山から流れ出る太子の沢と湯の沢温泉付近より流れ出る水の合流地点より、少し下ると大きな滝(朝日の滝)がある。その滝を眼下に見下ろす位置に忠治の赤城塔がある。塔が鎮座している場所は赤城寺(セキジョウジ)の旧跡地である。滝は神聖な場であったと伝えられているが、その位置に神の水の流れを見守る様に宝塔が立っている。
 そう、この春発見された宝塔の相輪部分も、滝沢の不動大滝を眼下に見下ろせるであろう位置に…鎮座していた…のでは無かろうか??
 三夜沢から忠治方面に向かって進むと橋がある。名を神東橋(ジントウバシ)と称する。神の東に位置する橋…。
 一の鳥居の東に手洗橋があり、その少し上流部に荒砥川と神沢川に分流する場所がある。この堰の権限を握っていた人々は??
 米の生産に欠かす事の出来ない水、その水の源を求めて…源の権利を独占する者??
 その権力に近い人物が白山の地に派遣されていたのでは…。何故なら、宮城地区には弥生文化の足跡は皆無に近い。そして突然古墳文化に移行する。これだけの副葬品を持つ富みが醸成する場所では無い??
 やはり、深津の荘園の支配者や大室古墳群の被葬者、との関係が色濃く映し出される。勿論、粕川の源流域を支配(月田古墳群・近戸神社赤城塔)していた人々も皆関係があるだろう。
 南麓の古墳文化を創った一団が、赤城の水の権利を握った事は事実であろうし、派遣されていた水の源の管理者(大陸の高度な技術を持った人・新しく入った仏教との関わり、水に関わる祭祀・和同開珎を鋳造した人々との繋がり)こそが最も被葬者に相応しい。宇通の寺院群を作った集団も、これらの人々の末裔であろう。
 三夜沢赤城神社境内から出土する瓦からも、この地に中世寺院があった事が考えられると言う事は、西宮の故地が宇通(元三夜沢)であるとの伝承…、宇通のその後は、三夜沢に集約されて行ったのでは?? 神社・寺と分けて考えない方が??
 西宮の祭祀に関わる杉下家等々の墓地の高台には、北北東を向いて建つ石殿が…。彼等の先祖はそこから来たのでは??
 子孫は何時迄も先祖が来た故地を思うものである??

[白山古墳]
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[白山古墳出土品]
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[朝日の滝]
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[粕川町深津・三ケ尻の赤城塔]
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