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2006年06月19日

●よもやま話「京都・東福寺への問い合わせ」

 本年の春頃、友人が赤城山中の峡谷より「宝塔」の相輪部分を拾い、私に手土産として届けて下さったのが、今回の研究の始まりであります。その相輪は鎌倉時代末、この赤城山中で修行していた「赤城了需」と言われたお坊様の門徒(赤城門徒)が造塔した物とされている「赤城塔」の相輪部分であると確信いたしました。赤城山を源とする「粕川」、「荒砥川」水系の一部にしか存在しない特異な宝塔であります。群馬大学の考古学教授であられた「故尾崎教授」により研究され、この宝塔の名も「赤城塔」と命名され、九州の国東半島にある「国東塔」と並び称される宝塔と成っております。
 この赤城了需と言うお坊様は、群馬県太田市の尾島町にある「長楽寺」・1221年(承久3年)新田の荘を開いた新田義重の子、義孝が臨済宗の開基・栄西の高弟栄朝を招いて開山として創建された寺であります。栄西の弟子「円爾弁円」(東福寺開山)の弟子である「月船しん海」が、弘安5年に長楽寺の住職(5世)に任命されてました。徳治2年東福寺に移る迄の25年間在職、翌年、東福寺で没しております。この地で多くの弟子を育てております。その弟子の中から6人も長楽寺の住職になっております。その弟子の中に「赤城了需」がおりました。
 この了需の事は「法照禅師十乗坊(月船しん海)行状」と言う書物の中に書かれております。赤城山中に居て30余年も山を一歩も出ていないとか、天狗を友としていた…とか、しかし、月船和尚より戒を受けて依り、赤城山から月に一度、山を下り長楽寺に通ったと。又、上野では、月船の教えを学ぶ者を「赤城門徒」と称し、月船死後は了需が門徒の祖と成ったとの記録があります。
 また、了需は、中国に渡り天童山で学びます。そこで、住寺雲外に依頼、師・月船の十三回忌を営んでいる事が、雲外の記録「天童雲外記」に記載されているとの事であります。この渡海には、鎌倉幕府や「長楽寺」や「東福寺」が関与していなければ実行は不可能である筈です。十三回忌、4年後の元亨4年(1335年)の年号の入っている「赤城塔」が故地と思われる、鎌倉時代の寺跡(赤城山中)に現存しています。私の菩提寺の旧跡地もその近くの山中の峡谷にあります(相輪は其の近くで発見)。慶長・元和の頃、円義上人(元和9年没)が現在地に移転したとの話が、寺の来歴に記されております。当時は京都醍醐寺派報恩院に属し、後、真言宗智山派から明治時代に真言宗豊山派に変わっております。
 最近迄は、真言密教の流れ…と理解していましたが、我が金剛寺は創建当時天台宗??ではとの疑念が生じて参りました。そんな折り、金剛寺の古い記録の中に、三世円裕(寛文12年11月没)は法流開山であると、また、過去帳には「法印権大僧都円裕上人六波羅普門院」との記載が、その他、「宝永7年正月・法印舜尊・六波羅普門院住持・亮厳房」なる過去帳の記載が見え、普門院との継続的な繋がり見えて来たのです。
 金剛寺…普門院…東福寺との関係が解明されれば、我が金剛寺の開山当時の宗派解明に役立つ筈であります。寺の歴史も400年経つと殆ど不明…となります。少しでも解明出来れば歴代和尚の供養となりますので、何卒、御教導の程宜敷お願い致します。

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