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2007年03月02日

●「宮城」*宮城県メールマガジンから

宮城県が発行しているメールマガジン「メルマガ・みやぎ」の第138号(3月2日発行)に、宮城地区のことが紹介されましたのでご紹介します。

******* メルマガ・みやぎ 第138号から抜粋 *******

□ 関東の「みやぎ」
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 宮城県の「宮城」のいわれは、塩竈神社(宮)と多賀城(城)によるとするもの、屯倉(ミヤケ)が宮城となったとするもの、また多賀城=「みちのく遠の朝廷(とおのみかど)」の意味で「宮城」とされたという説があります。

 ところで、関東地方にも「宮城」という地名がいくつかあることをご存じでしょうか。

 東京都足立区、荒川と隅田川に囲まれた宮城一丁目〜二丁目は、かつて宮城村といわれた地域です。荒川放水路(現:荒川)開削後、北宮城町と南宮城町に分かれ、戦後の住居表示施行によって、北宮城は扇・江北などの一部になり、南宮城町だけが宮城一、二丁目として残ったといいます。

 宮城は昔、「宮木」とも書いたとのこと。室町〜戦国期の武将、岩付太田氏の重臣宮城氏がこの地を治めていたことによるともいわれていますが、はっきりとした由来はよく分かっていないようです。

 現在は住宅地がその大部分を占め、一丁目の足立区立宮城図書館と、二丁目の水処理場などが主な建物です。

 もう一つ、群馬県にも勢多郡宮城村という地名がありました。平成16年12月の市町村合併により、現在は前橋市の一部となっています。

 群馬県のほぼ中央部に位置し、自然豊かな土地柄。赤城神社をはじめ、現存する草葦民家としては群馬県内で最古という阿久沢家住宅など歴史的遺産も多く、最近では、ぐんまフラワーパークや赤城高原牧場クローネンベルクなどに多くの観光客が訪れています。宮城という地名は、赤城神社と赤城山に由来しているともいわれています。

 東京都の「宮城」と群馬県の「宮城」。実は両者には関わりがあります。同じ地名が縁で、足立区の「足立凧(たこ)まつり」に前橋市の子どもたちが参加したり、また前橋市の「赤城南面千本桜まつり」に足立区からのお花見ツアーが企画されるなど、地域ぐるみでの交流が続いているとのこと。

 宮城という地名は、北海道伊達市、千葉県館山市、岐阜県飛騨市、沖縄県浦添市など全国にあります。各地の「宮城」同志がその名にちなみ、交流を深め合うのも面白いかもしれません。

●よもやま話「柏倉の大崎屋敷の郭を訪ねて」

大崎正夫家  柏倉の大崎正夫家を訪問した。門構えや母屋の造りもなかなかの物である。
  大崎正夫家は、大崎長門家の新宅との事、江戸時代には名主を務めた事もある由。右隣りは「大崎金兵衛」と言う表札が掛かった廃屋がある。この建物は長屋門になっていた。この建物も往時はなかなかの構造物で大崎一族が如何に優勢であったかを知る事が出来た。無断で敷地内に立ち入り、大崎長門家裏山をぐるっと拝見させて貰ったが、大崎長門屋敷を含むこの一帯は、砦の様相を呈しており(柏倉の砦・大崎屋敷)、裏山を散策させて貰ったお陰で、その様子をつぶさに知る事が出来たのは収穫だった。
  大崎金兵衛氏(故人)は鼻毛石で薬局を営む傍ら、宮城村商工会長等も歴任した人物で、息子さんは現在、群馬県理事・産業経済担当の大崎茂樹氏である。
  一門の歴史に付いては既に記しているので省略させて戴くが、何れにしても戦国時代から江戸時代を通して、この一帯の指導者として常に先頭を走っていたのは事実である。現在の市議会議員・大崎美一氏や県議会議員・中村紀雄氏夫人も同門の出である。