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2007年03月08日

●よもやま話「市之関の阿久沢宗家を訪ねて」

  2月の終わりに市の文化財巡視に出掛けました。
  最初は三夜沢の赤城神社へ。真隅田宮司が札所前で薪ストーブの調整をしておりましたので、神社に変化が無いか様子を伺いました。次ぎに「中門」、「本殿」、「俵杉」の目視点検をし、神社を辞し「惣門」を点検。次ぎに、柏倉の東昌寺へ向かいました。途中、阿久沢家を点検しながら市之関の住吉神社へ行き「算額」を見てから、阿久沢一郎家(阿久沢宗家)に立ち寄りました。
阿久沢一郎宅阿久沢一郎宅  入り口すぐ右横の菜園に阿久沢さんがおりましたので声をお掛けしましたら、昨年怪我をし、やっと少し動ける様になったと以前より少し力無く声をお出しになっておりました。屋敷回りを見せて欲しいと申しましたら、快く隅々まで案内をして下さいました。
  とにかく屋敷裏手に回りますと、砦の土居、堀が往時そのままに現存している事に驚かされました。隈無く見させてもらい、門から屋敷方向等の写真を撮らせて貰い(旧母屋は馬場、豊島源右衛門宅)、辞しました。
  阿久沢さんは宮城村教育委員等を歴任されたり、私と同じ文化財調査委員を拝命致しておりました。また、長らく宮城村教育長を務められていた平林先生とは前中の同級生であるとの事です。
  その次ぎに、西隣の新宅、阿久沢重悦さん宅を訪問し、重悦さん御夫婦に丁重にもてなされ、奥様に屋敷回りを案内して戴きました。屋敷の西の畑(元田圃)に案内されアブラ菜をたくさん頂戴しました。
前方が住吉神社  この畑に立つと、この砦の西側の概要が良く分かります。地形を利用したかなり素晴らしいものです。谷を挟んだ西前方には住吉神社があります。恐らく、この神社も砦の一角に組み込まれていた物と推測出来ます。本家の一郎さんは「俺らんちの神社」と呼んでいると奥様が話して下さいました。先頃まで、重悦さんがこの社の宮司をなさっていましたが、最近、都丸(故人・文化財調査委員を歴任)さんのお孫さんに変わったと申しておりました。お茶を戴きながら、色々のお話を伺う事が出来ました。「阿久沢能登守の城が落城する時、お姫様を貰った。もう一人の娘は、前橋の南の方に、息子は…」なんて話しです。「貰うにつけ、名字も貰った。六本木を称していたので、名前を変えるのを快しとしない一族がいて、今でも六本木を称している…」と。阿久沢重悦宅とにかく興味ある話しを伺い、古い屋敷の写真を接写させて貰い重悦氏宅を辞しました。この写真は、重悦氏が軍隊時代、シベリア抑留時代肌身離さず持っていた小さな写真を引き伸ばしたとの事だそうです。
  この場所の北東方面前方には大崎砦がありますが、この屋敷の前一帯が砦の跡(昭和63年、宮城村教育委員会が発掘調査)である事が判明しており、その規模の大きさには驚きます。
  ここを「三本木城」と命名し、字名は「前田」で、堀・土居・井などが検出されました。きっと阿久沢一門の砦でありましょう。そして、そのずっと先が西屋敷・六本木砦です。ほぼ並んで、防御態勢が敷ける様になっているのです。この市之関・柏倉の土豪達が連合体を組んで戦う体制を作っていたのでは無いでしょうか。
  市之関は阿久沢を中心に、この一帯に土着している氏族が、そして柏倉は、前にも書きましたが、大崎、六本木等々の氏族が共に連携してこの防御陣地の守備に付いていたと推測出来るのではないでしょうか?