●よもやま話「英霊殿」

宮城支所裏の英霊殿も、前宮城村長桜井敏道氏や前議会議長阿久沢徳男氏等の議会議員の皆さん方の奔走と遺族会の皆様方の合意により、既に移転候補地が決定されております。新しい支所の建設と同時に新天地に移転が成されるでしょう。
平成9年に発刊された「戦没英霊録」を紐解くと、当時の金子浩会長以下の役員の皆様方の並々ならない努力の足跡を知る事が出来ます。古くは西南の役から始まり、日清日露の戦い、そして、今時大戦に至まで事細かに網羅しておりました。戦没者総数は271柱(戦後転入3柱を含む)だそうです。
鼻毛石 69柱
柏 倉 67柱
市之関 26柱
三夜澤 3柱
苗ヶ島 48柱
馬 場 21柱
大前田 37柱
合 計 271柱
昭和12〜18年頃までは、中国大陸(満州を含む)に於いての戦死者は毎年5名位でした。しかし、戦線が南方地域に拡大すると共に、戦死者の数が一段と増大傾向に向かい始めます。
昭和19年には、中国大陸で8名余り、ビルマ方面で20名余り、南方諸島(ニューギニアを含む)50名余り、フィリッピンで14名余りの戦死者が出ます。
昭和20年には、中国大陸で3名余り、ビルマで4名余り、南方諸島で19名余り、フィリッピンで31名余りと言う具合に、この2カ年余りの間に戦死者が集中しているのです。その他、沖縄、小笠原、硫黄島、北方等々の地で亡くなられた方々がおります。
また敗戦後にシベリアの捕虜収容所等で、また、中国大陸で亡くなられた方々もおります。この中の多くの方々は正確な、戦死場所、年月日、遺骨等の返還さえ、なされていない方々が数多くいらっしゃる事と思います。
30年位前、大前田の中沢さんと言う方からインパール作戦と言われた、ビルマでの筆舌し難い程の凄惨な戦場体験を聞かされた記憶が未だに忘れられません。牟田口軍司令官による、インドへの侵攻作戦だったそうです。無謀な作戦により多くの将兵が倒れ、屍が累々と横たわっていたそうですが、その多くが餓死やマラリアに起因するものであったとの事、また、ニューギニアでの戦いでも大半が餓死やマラリアであったと戦争体験者が語っております。
我々は戦禍で倒れた多くの郷里の先輩達の、果たしえなかった思いを後世に伝える義務があると思います。今後も、昨今タブーになりつつある戦争等の話しを、少しづつ取り上げられたら良いなあと思っております。