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2006年05月15日

●よもやま話「楫取県令と斉藤多須久」

 群馬県の初代県令、楫取素彦は安政の大獄で刑死した吉田松陰の門下生であった。松陰は尊皇の大義を唱え国事に奔走、また、松下村塾を開き多くの逸材を輩出した事で知られている。正に、その門下生により、明治維新が引き起こされたと言っても過言ではない。
 その門下生の中に、久坂玄瑞(くさか・げんずい)と言う、秀でた若者がいた。特に松陰に期待を掛けられ、松陰の妹を妻に迎える。彼は又、高山彦九郎に心酔、彼の自刃の地(九州)に赴き墓参をしたり、彦九郎の出身地である上州・新田までも来ている。禁門の変で負傷後、友と自刃している。25歳と言う若さであったと…。
 後にその未亡人・文と楫取は再婚している。文は後年、美和と称していた。東宮七男は美和と楫取県令が二人で湯の沢(赤城温泉)に逗留したとの記事を書いているが、事実では無い。県令が来湯した理由は他にあった。その理由は後日としたい。
 県令の高山彦九郎に対しての思いは特別な物があったと…特に当時の尊皇の志士にとって…。
 斉藤多須久が高山彦九郎神社を太田に建設する訳だが、正にそこには、初代県令と多須久の関係を如実に表していると言っても過言では無い。赤城登山も当時の紛擾事件解決の為であり、この地区に足を踏み入れているのも、斉藤多須久が仲介の労をとっているからである。